学生レポート) 「宮本常一の呼び声」(立命館3年生渡邉 太祐さんの調査報告)その1 #MiyamotoTsuneichi #周防大島 RT @tiniasobu
2011/07/19
もう、びっくりするぐらい読み応えのあるレポートが立命館大学の調査実習で生ま
れていました。
宮本アサ子さんも、2010年8月6日に亡くなられましたので、いまでは伺うことがで
きない貴重なお話も入っています。
出だしの所、次の一文にもひきつけられます。
「ちょうど『宮本常一著作集1 民俗学への道』を見ていたときであった。突然、本の
行間が揺らめいたように感じた。そのとき私は直感的に宮本常一がそこにいるような
感じがした。宮本常一の声が聞こえたように思えた。それは、ほんの一秒ほどの時間
であったと思う。しかしながら、私にとってはこのレポートを書く途中で起きた、忘
れがたい出来事となった。」
「ようきたのんた沖家室」のサイトからオーナー松本さんの快諾により引用させてい
ただきます。
http://www.h3.dion.ne.jp/~kamuro/sub18.htm
紹介文
「宮本常一の呼び声」
渡邉 太祐(経済学部3回生)
1999年・2000年に行われました立命館大学の調査実習で、東和町出身・民俗
学者「宮本常一」氏の足跡を訪ね歩いた渡邉太祐さんのレポートです。
故・宮本常一氏のアサコ夫人をはじめ、ゆかりのある方を丹念にたずね歩き、ぼう
大な著書を読み解きながらまとめられた濃い内容のレポートです。
(2000年度 立命館大学 経済学部 ヒューマンエコノミーコース 「周防大島・
山口県東和町調査実習報告書」から)
感想をお寄せいただければ幸いです。
本文
宮本常一の呼び声
渡邉 太祐(経済学部3回生)
昭和14年以降、日本全国を隅々まで訪ね歩き、各地の民間伝承を詳細に調査した民俗
学者・宮本常一。その旅程は実に16万キロ、地球4周に及ぶといわれている。また、
その旅は、辺境の地で生きる古老達の一生を聞き出し、動態をもって描く旅であっ
た。日本の片隅で黙々と生きる人々の生活を表舞台に導いた宮本民俗学は、現代日本
が忘れた何かを思い出させる一つの大きな契機でもある。
その宮本常一氏の生まれ故郷は、ここ山口県大島郡東和町である。宮本民俗学の原点
ともいえるこの地に何かを求められるのではないか。本章にはそんな気持ちがこめら
れている。
1 はじめに
このレポートでは、宮本常一という人の生涯を私なりに考えてみたいと思って書いた
ものである。このレポートを書くことで私自身多くのことを発見した。また同時に、
考え違いをしていたことや一人よがりになっていたところも多かったと気づいた。そ
ういう欠点も含めて多くの驚きと発見が、このレポートを書いている途中にはあっ
た。そういう意味では、私自身にとっては大変実りある勉強になったと思う。
このレポートは題して「宮本常一の呼び声」というものとなった。この題は私がこの
レポートを書いていたときの感想に基づいてつけた。
ちょうど『宮本常一著作集1 民俗学への道』を見ていたときであった。突然、本の
行間が揺らめいたように感じた。そのとき私は直感的に宮本常一がそこにいるような
感じがした。宮本常一の声が聞こえたように思えた。それは、ほんの一秒ほどの時間
であったと思う。しかしながら、私にとってはこのレポートを書く途中で起きた、忘
れがたい出来事となった。
それ以来私は宮本常一という人は、いつも本の中からでも、人に呼びかけているので
はないかと思うようになった。「おーい、俺の本当に言いたいことはこういうことな
んだ」というように。宮本常一の呼び声、それはいろんな所にあふれているのではな
かろうか。人に「おーい」と呼びかけられたら、こちらも何か返事をしなければなら
ないと思う。しかし、声の聞こえてくる方にきちんと返事をすることは容易でないと
思う。自分はきちんと返事をしたつもりでも、実際は別のほうを向いて返事をしてい
た、ということもありうる。そういう意味でこのレポートは、私が聞いたように思っ
た呼び声に対する返事のつもりで書いた。きちんと返事が返せたかどうかはわからな
い。私は、また呼び声が聞こえないものかと思う。
私は、民俗学や民具などには詳しくないので、そういう専門的なところには立ち入ら
ないようにした。あらかじめお断りしておきたいと思う。
また宮本常一本人、その他渋沢敬三、柳田國男などの人びと、宮本常一の父、母、祖
父母の方々などの敬称は略させていただいた。
2 家族と宮本常一
2.1 父・宮本善十郎
瀬戸内海に位置する周防大島、その島の広島湾に面した一集落に宮本常一は誕生し
た。宮本家の長男としての誕生であった。父は善十郎、母はマチ。兄弟は、姉と弟の
三人兄弟。そして祖父の市五郎、祖母のカネという家族構成であった。しかし、弟は
後に他家の養子となった。以上が宮本の家族である。
さて、人間が成長する過程において大きな影響を及ぼすものの一つは、その家族であ
る。その家族の人々が、どのような人たちであったかということが、一人の人間の人
生に大きな影響を与えることが少なくない。
その中でも、もっとも大きな影響を宮本に及ぼしたのは、父である善十郎であった。
そのことは、後年の宮本の著作である『民俗学の旅』において、「私の生きていくた
めの方向をきめさせてしまったのは父だったようだ」と述べられていることからも、
そのように推測することができる。この宮本に「生きていくための方向をきめさせ
た」善十郎という人は、どのような人であったのだろうか。このことについて考える
ことは、大変重要なことだと思われる。宮本常一について考える前段階として、以下
彼の家族の人々について、善十郎から順にみていこうと思う。
宮本善十郎は、『民俗学の旅』によると、明治6年に生まれている。当時、家はどん
底の状態にあったようである。村の綿屋への奉公を皮切りに、塩の行商、紺屋への奉
公というように、様々な職業を経験した後に、オーストラリアのフィジー島へ出稼ぎ
に出ることとなった。なぜフィジーに出稼ぎに出ることになったのかについては、
『宮本常一著作集30 民俗のふるさと』に収められている、「村と村」に書かれてい
る。それによると善十郎は、若いころに大島の88ヶ所を巡る島四国をまわっていると
きに、東の村の若者と出会い、気があって兄弟分となった。ある日、その男からオー
ストラリアのフィジー行きを誘われ、出かけていったのだという。明治27年のことで
あった。
こうした動機から出かけたフィジーであったが、友は、風土病に倒れ、その他の出稼
ぎ者の多くも、友と同じく風土病に倒れたために、引き上げることになってしまっ
た。このフィジーから日本への帰還の途中に、台風に出遭ってしまい、船が沈みそう
になった。船中の人々は、何とか助かるようにと、金毘羅様に祈願した。もし生きて
帰ることができれば、そのときは、裸足参りをすると誓った。その甲斐あってか、船
は、無事に神戸にたどり着いた。しかし、請願通りに裸足参りをしようとするものは
なく、ただ善十郎だけが、請願通りにはだし参りを行った。衰弱しきった体で、金毘
羅の石段を這って登ったという。大変意志が強く、また誠実な人であったという印象
を受ける。本当に請願どおりに裸足参りを終えてしまった。そして、そのときのつら
さから、善十郎は、神に対する約束を果たすことほど難しいことはないと悟り、これ
以後、神にものを頼むことをやめたという。そして、「自らの運命は自らで開拓しな
ければ開拓しようがない」と考えた。そして、「またそのように努めている時こそ神
は守ってくれるであろうとて、心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守・u桙
轤゛、と言う歌をひい」た。そして宮本には、「神社に参ることは否定しなかった
が、頭をさげる以外のことはさせなかった」という(『宮本常一著作集6 家郷の
訓』)。
このような「生死の境を越えた出稼」によって「故里の有難さ」を知ったという。そ
して傷ついて帰ってきたものでも故里は迎えてくれる。その迎えてくれた「故里を健
全にしていくことが何よりも重要なことだ」と考え、以後故郷を離れることはなく、
故郷のために尽くしていくことになった。こうした父の姿が宮本に影響を与えた。
その後も善十郎は、山林を一ヶ所買って桑畑を拓き、養蚕をはじめた。また、村人に
も養蚕をすすめた。蚕の共同飼育所も作った。「一つのことをして自分だけがよくな
るのではいけぬ、みんなが喜びあえるようにならなければ」という信条のもと、桑の
接木をしてまわったり、破産しかけた家の世話をして、家を立て直したりもたりもし
た。また、養蚕が不利になり始めると、次に蜜柑に目をつけ、「子供のおやつによ
い」といって報酬をもらうこともなく蜜柑を植えて回った(『宮本常一著作集19 農
業技術と経営の史的側面』)。
厳格で、時には公衆の面前でも怒りを発したりもしたが、その実、誠実で、他人の面
倒をよく見る人だったようである。そうした父親の姿に、後年の宮本は、篤農家の姿
を見出したのであろう。『著作集19 農業技術と経営の史的側面』所収の「篤農家の
経営」において、「ある農民の生涯」と題した一節が父のために割かれている。
宮本にとって、父善十郎とは、「この上ない尊い師」であり、彼自身の「農業に関す
る知識と態度の根本的なものは父の考えを一歩も出」ないものだったと言う。(同
上)
父とは、宮本に農業とは何か、人としてどうあるべきか、さらには、どう生きてゆく
のかといった事を、身をもって教えてくれた人であったと思われる。そして、「自ら
は多くをむさぼる人ではなく」、ほかの人々に分け与える人であった。
父善十郎から、宮本が学んだことはまだ他にもあった。旅である。善十郎の旅のスタ
イルは、ぶらりと出かける旅であったようだ。山に仕事へ行ったと思っていると、突
然家へ戻ってきて、着物を着て旅に出かけていった。右手を懐に入れ、ややうつむき
加減ではあるが、足取りは、しっかりとしていた。行き先を告げることはほとんどな
く、ふっと島外へ出て行ったのである。そうして西は宮崎から、東は日光まで旅をし
たのだという。
しかし、こうした気風は、彼の父のみに限ったことではなく、島民に多く見られるも
のであったという。島に住んでいると、少し高いところに登れば、海を見渡すことが
できる。そうして海の彼方には陸地が見えている。そうした環境が、島民の心の中に
ふつふつと旅情を湧き立たせ、人々を、海を越えての旅へと誘っていった。
善十郎が旅で得た心得は、子である常一へと受け継がれていった。「旅をしてもただ
ボヤッとしていたのではだめだ、汽船や汽車で乗降の客の人数、支度、荷物の種類に
は気をつけて見なければいけぬ。家の様子はその土地の貧富を示すものだからよく見
よ。言葉に気をつけると、その土地の学問の程度が知れる。」(『宮本常一著作集38
周防大島を中心としたる海の生活誌』)
さらに、このような旅の心構えによって得た知識や体験は、ただ己に帰すものであっ
てはならなかった。旅は、「家へ村へ役に立つようなものをもたらすもの」でなけれ
ばならなかった。(同上)
ここまでは、善十郎についてみてきた。ここからは、その父親としての善十郎の生き
方が宮本にどのような影響を及ばしたかを少し考えたい。宮本は、確かに父から多く
のことを学んだと思う。善十郎は、「仕事に惚れなくてはいかん」と言い、「どんな
につまらんと思うものでも、それの値打ちが本当に見えんと百姓はできん」と言っ
て、宮本に百姓としてのあるべき姿というものを教えた。また、前述したように旅に
学ぶこと、人としての生き方、こうしたことも父から学んだ。「父在せばその志を観
る」という言葉がある。この言葉の意味は、子は父親の行動の中の志を観ろ、という
意味だそうであるが、宮本が父の志として、受け継いだものは、郷里に尽くすことで
あったのではないかと思う。善十郎の生涯には、郷里に尽くすという姿勢が一貫して
流れているように思われる。自らの家の借財を返済するために、必死に働きつつ、そ
れでいて私利をむさぼることなく、他人に自らを誇らない。それでいて人が困ってい
れば、助けてやる。そしてその人が立ち直れば、もう己は、表に出ようとしない。村
人の気風を見究めながら、自分が村のためにできることを精一杯行う。そうい・u
桙、父の姿であり心を、宮本は受け継いだのではないかと思う。加えて、宮本の持っ
ていた、激しさと言うものも、善十郎が理不尽なことや、わがままにぶつかった時に
怒りを発し、公衆の面前であっても叱責をしたという、善十郎の激しさにつながるも
のではなかろうか、と考えてみたりもする。
このように考えてきてみると、宮本にとって父親の存在というものが、大きなもので
あったと考えることができる。後年の宮本の仕事をながめたときに、彼の父である善
十郎が郷里で成し遂げようとしたことを、宮本が全国的な規模で行ったかのようにも
思われてくる。郷土の人々による地域振興という大きなテーマは、このあたりに淵源
を発しているのではないかと考えている。もし仮に、そうであるとすると、宮本の地
域振興というものは、親子二代にわたっているようにも思える。
以上見てきたように、宮本にとって、善十郎と言う人は、きわめて重要な存在であっ
たと言えると思う。しかし、宮本の父親としてだけでなく、一人の人間として、宮本
善十郎という人をみても、夢を持ち、自らの信念を貫き通した人であったという印象
を受ける。厳しい人であったが、多くの人を助け、人の幸せと郷里の向上を願い、そ
してその願いを実践した人であった。
2.2 母・宮本マチ
しかしながら、父の教えは、また母の存在なくしては子に伝えられていくものではな
かったように思う。その家の家風や、村での位置、家の歴史等を子供に伝えていくの
は、母親の務めであったようである。宮本も母マチから村の家一軒一軒について、詳
しく、その家の歴史について語り聞かされた。どの家が憑き物の家であるのかとか、
血の悪い家についてなどの家々にまつわる伝承について、その他にも村の中での格式
について、自分の家の欠点についても教えられたそうである。そのような教育を子に
施すことによって母は、子がどのように振舞うべきかを教え、それによって人に謗ら
れる事のないようにした。そうしたことが共同体の生活では、大変重要なことだった
ようである。そうして、このような教育を通じて子は自らの家の村内での位置を知
り、そしてそれを基準として、言動においての判断を行ったという。そして、母マチ
は宮本によくこう言っていたという。「人はどれほど出世しても初めの身のほどを忘
れてはならぬ」と(『宮本常一著作集6 家郷の訓』)。
宮本にとって母親とは、慈愛深いよい人であった。また、それは周囲の人々に対して
もそうだったようである。宮本常一夫人の宮本アサ子さんからもそういうお話を伺っ
ている。
母マチは、宮本に十分な心遣いを示し、決してしからなかったそうである。丈夫に育
つようにと、卵や漢方薬を飲ませてくれた。
母からは、祖父に次いで多くの昔話を聞いたという。山へ行き来する間には、唱歌を
教えてくれた。そうすることで子供の心をひき、仕事への興味を持つようにとの工夫
からであった。母親とは、このように多くのことを子に伝え、その成長を願っていた
のである。子供が成長して、外へと飛び出そうとするときには、母親がその最も良き
理解者になった。宮本が小学校を卒業し、町へ出ることを希望したときにも、密かに
支持し、父善十郎に話してくれたのも母であった。子供の意思を尊重し、夫である善
十郎の死後には、一人でみかん畑と田を耕し、その土地から離れなかった母の姿に、
宮本は一番教えられたのだという。
一方では、父祖からの地をもち伝え、他方では、子の考えを尊重し、町へと出て行く
ことを支援してくれたマチの存在は大きかったと思う。宮本が人に見せていた穏和で
優しい面は、ひょっとするとこの慈愛に満ちた母に由来しているのかもしれないと
思った。母親の存在が、子供に新たな機会を与え、また父祖からの教えを身に付けさ
せたといって良いように思うのである。最後にこの言葉を付け加えておく。
「かくのごとき村里生活の場において父祖の心をその子たちにうけつがしむるために
その間に立って身をもって教えたのが母であった。そして母は己自らを空しくするこ
とによって、自らを子に生かそうとしたのである」(『宮本常一著作集6 家郷の
訓』)。
2.3 祖父・宮本市五郎
次は、祖父の役割について述べてみたい。
宮本は、祖父の市五郎から最も多くの民話や、童謡を聞いた。宮本の民俗的な素養も
しくは、民俗への関心を育ててくれたのは、祖父市五郎の影響が最も大きいのかもし
れない。しかし、民話的な雰囲気というものは、祖父の市五郎に限ったことではなく
て、一般的に村を覆っていた空気であったという。
宮本が生まれたころの一般的な傾向として、子の母親は、毎日家の外で働いており、
もっぱら子供の面倒は祖父母がみていたようである。『家郷の訓』によると宮本も幼
少のころは、最も祖父母、特に祖父のほうに面倒をみてもらっていたようである。ヘ
ヤと呼ばれる隠居で育てられた。市五郎は、明るい性格で、唄の上手な人であったと
いう。その祖父に連れられて、四つになるころから田や畑へいったという。その行き
帰りには、オイコに乗せてもらっていた。仕事から帰ってくると、肩や足をもまされ
たが、そのかわりに、昔話を聞かせてもらうのが幼少のころの楽しみだった。
この話は、市五郎の話ではなく、外祖父の方の話であるが、本を読んだということも
なかったのだが外祖父は、自分なりの歴史認識とでも言うべきものをもっていた。た
とえば、易者が長曾我部元親をみて、あなたは一国の大名になれる、と言ったら元親
は、いや、俺は天下をとる、と言い、その後にきた武士に、易者は、あなたは天下を
取れる、と言うとその武士は、ニコニコ笑って、そうかといって過ぎていった。この
武士が徳川家康であった。この話から、宮本の外祖父は、運命は、人間がどうとする
ことのできないものであると考えていたという。
また、毛利輝元の昼飯の食べ方から、輝元の祖父であった元就が輝元の器を見抜いた
と言う話などは、幾度となく聞かされたのだという。そして、この話から、「一度や
りかけたことは中途で変更するものではない」と諭したのだという。私は、この話と
同じ内容の話を戦国期の北条家の話として聞いたことがある。同じ型の話が他にもあ
るのかもしれない。
祖父の市五郎の民話のみならず、このような史実ではないけれども何らかの歴史的教
訓を伴った話が、宮本の性格を形成する上で力があったのではないかと思う。歴史に
対する興味を持たせたという意味も含めて。
以上、みてきたように、当時の慣習によって母親が働いている間の幼い子供の面倒
は、主に祖父母が見ていた。宮本もまた、その幼少期の多くの時間を祖父母と過ご
し、特に祖父の聞かせてくれた民話や、祖父の人柄そのものに影響を受けていたよう
である。後に民俗への興味を持つようになる素地は、このあたりで形成されていたと
言っていいように思う。
2.4 前史としての家族
ここまで順に父善十郎から、母マチ、祖父の市五郎まで、それぞれの人が、宮本の成
長過程にあたえた影響を中心にみてきた。そこから言うことのできることは、これら
の人々からの影響が宮本の人間としての基盤を作り上げているということである。
父の善十郎は、人間としての生き方、故郷に奉仕する人の姿を、身をもってして宮本
に教え、マチは、父祖の教えを守り、それを子に伝えつつも、子の考えには理解を
持って、愛情と優しさを注いだ。祖父の市五郎は、宮本に多くの民話を語り聞かせる
ことで、少年の想像力を刺激しつづけた。こうした肉親から受ける刺激や教えは、幼
い子供の心の奥底に沈みこんでいく。そうして身体に染み付いた肉親からの教えは、
さまざまに局面において、無意識的に人に呼びかけてくる。そして時には、その人自
身の行動をも規定してしまうほどの大きな力を持つものなのである。宮本が、これら
の人々より受けた影響は大なるものがあったと言ってよいと思う。
さて、これまで述べてきたことから考えてみると、宮本を取り巻く人々の存在は、宮
本にとって大変重要であったということが見て取れたと思う。宮本が自分自身の力で
人生を歩き始める以前に、これらの人たちが、歩き出すための準備をしてくれていた
のである。従って、宮本を取り巻いていた家族の人々の歴史は、そのまま宮本を考え
る上での前史として私は捉えたいと思っている。
3 宮本常一を取り巻いた環境
次に宮本の周囲の環境についても目を向けていきたいと思う。なぜなら、人間はその
成長過程において、もちろん家族による啓発も重要な要素となる。そして、それと同
程度と言っていいほど、人間を取り巻いている環境と言うものは、非常に大切な、見
逃すことのできない一要素である。実際に彼の業績を見てみても、そこには故郷周防
大島からの多大な影響がみられるのである。
宮本は農家に生まれた。このことが彼の人生を考えるうえで重要な要素であること
は、明らかであるといってよい。なぜかといえば、農業を通じて父母から教えられた
事を彼は終生忘れなかったし、それはまた彼の中で非常に重要な部分を占めていたか
らである。幼少のころより農業に従事する中で、宮本は単に農業の知識や技術を身に
付けたのではなかった。もちろん、知識や技術の習得は必要不可欠なことではあるの
だけれど、それだけではなかったのである。農業を通じて、土と触れ合う中で、人の
生き方をも体で学び育ったのであった。それが本当に大切なことであった。後に旅に
出るようになって、その旅の途中に多くの人に出会った。その人々の中には、実際に
大地に根を下ろしているような、汗を流しながら、働いている人々が多かった。その
ような人々と共通する感情をもつことができたということが、どれほど重要なことで
あったかわからない。さらに、そういう共通の感情を持つということが宮本の学問の
中においても、大きな役割を果たしている。
次は、陸から海の方へと目を向けてみようと思う。海の存在もまた大きなものであっ
たようだ。宮本の生まれたころは、家の前が石垣を隔ててすぐが海であった。現在
は、埋め立てが進んで海岸線は少し離れたところにあるが、昔は、本当に隣人とでも
言えるような近さに海があったのである。瀬戸内海の海は、穏やかである。土佐の桂
浜や玄海灘で見るような波の荒々しさはない。趣が随分とことなっている。こうした
海のそばで育ったということが、海への親近感を宮本に持たせたのかもしれない。そ
して後の『周防大島を中心としたる海の生活誌』を皮切りとして続いていった海への
関心は、こうした環境によるものである、ということは十分に考えられる。
周防大島の人々にとって海とは、非常に生活に密着したものであったようだ。宮本の
家は農業を営んでいたが、農家にとっても海から得られる様々な物は、役立つことが
多かったようである。例えば、海でとることのできる藻は畑のよい肥料となる。浜辺
で取れる貝は、食料となる。宮本の父、善十郎はこの貝堀の名人であった。天気のよ
い日などは、皆浜辺へと出て、気の向くままの話をしていたという。そうしたことが
島民を朗らかな性格にしたようである。また子供にとっては、よい遊び場でもあっ
た。子供たちにとって海で遊ぶことは楽しかった。しかしながら、その楽しさに身を
任せていると、たらいに乗って一里あまりも沖へと出てしまう子供もいた。宮本は幼
少の折、祖父を心配させながら、海でよく遊んだようである。
「海へ行くことについて年寄りはよく心配した。私も昼飯がすむと、祖父と一緒にか
ならず昼寝をさせられたものだが、こちらは祖父の眠るのを待っていて、そっと抜け
出しては海につかった」(『宮本常一著作集6 家郷の訓』)。海と戯れる宮本の嬉
しそうの顔が浮かんできそうである。
海は、気候の変化も知らせてくれた。お宮の森と海の波の音が彼の「気象台であっ
た」(『宮本常一著作集21 庶民の発見』)。海と気象の関係については、『庶民の
発見』や『周防大島を中心としたる海の生活誌』に詳しく書かれている。
気候、気象を知ることは、農業を営む人たちにとっては、非常に重要なことであっ
た。父善十郎も天気をぴたりと言い当てる人であったという。「日本の農民を一喜一
憂させたのはまったく天気であった」し、「農民はいつも天気を気にし、天気に左右
され、はらはらしながら生きて来た」のである(『宮本常一著作集2 日本の中央と
地方』)。
天気は、人々の心の中に大きな不安を生んできたようである。宮本自身も旅の途中で
天気が気にかかることもあった。「さて旅をしていて一番気になるのは日々の天気の
ことであった。長雨が降ると、ムギの取り入れはうまくすんだかしら、畑の葦は伸び
すぎてはいないか、天気がつづけば田がかわいてしまったのではないか、そんなこと
ばかりが気になった。とくに稲の植わっている間は心配ごとがたえなかった。稲は天
候に支配されることが多かった。とくに秋の風は気になった」(同上)。
海はまた人を旅へと誘った。大島の人々の中には、ふらりと旅に出る人たちがいた。
宮本の父善十郎もその中の一人であった。周防大島は出稼ぎの多いところでもあっ
た。海を隔てて向こう側にある世界へと、人々は思いを馳せたのである。それは男も
女も関係なかったようである。女性も女中奉公などで海の向こう側の世界へと飛び出
していった。宮本の母マチも、十歳前後には子守り奉公へと出て行っている。そうし
て外へ出稼ぎを行う女性の中には、友と語らって出奔の形式で島外へと奉公に行く人
もいたようである。こうしたときに心配するのは、父親のほうであり、母のほうが愛
情を持って理解していた。
ここでは人々の生活が生活を取り巻く海と親しく結びついていた。そして、そうした
ことから宮本が、海に対して、自身の懐かしい思い出とともに、生涯関心を持ちつづ
けたのではないかということが考えられる。
宮本を取り巻いていた環境というものは以上のようなものであった。環境とは、人間
を育てる土壌である。そこから、芽を出し、丈を伸ばして行く。これよりは宮本の生
涯
にその焦点を移そうと思う。
4 故郷からの旅立ち
宮本は、明治40年に生まれている。幼少の折は、祖父母によって主に養育された。7
歳になるとオイコをもらい、母に付いて山へ行くようになった。こうして田畑で働く
父母の姿を見て、少しずつ仕事を習い覚えていく。それと同時に7歳になると国民学
校へと通い始めることになった。10歳を過ぎるころになると父親からの教育も始ま
る。仕事を主として教えられた。そうして最初に土の掟とも言うべきものを教えられ
たようである。「土はあたたかいものであるととものに、またきびしいものであっ
た。このきびしさは土に生きるものが最もよく知っていた」という。それを知るとい
うことが「土の掟に従う」ことであった。そして「自らの生活にそのきびしさに応え
るだけの態度がなくては真に百姓は勤まらない」ので父善十郎は、宮本に「土の性を
知らぬようでは百姓は勤まらん」、「百姓が土を恐れんようでは一人前とはいえぬ」
と言い聞かせた。そして、その他にも「どんなにつまらんと思うものでも、それの値
打ちが本当に見えんと百姓はできん」とも言っていた。農作業とともにこうした心得
も教えられていった(『宮本常一著作集6 家郷ぁw)フ訓』)。
大正9年、宮本の叔父がシベリアへ駆逐艦に乗って出動した。その時、小学生からの
慰問文が多く叔父の元に届けられたという。その中でも宮本の作文が一番よかったと
叔父は誉めたのである。そして、宮本に文学者のようなものになるのがよいだろう、
と言った。
大正10年、宮本は西方尋常小学校高等科へ進学した。この小学校時代のエピソードが
残っている。宮本と同級生だったと言う藤井正氏が『郷土』(第2号)に書いている
のであるが、宮本が2学年になった一学期のある日、先生が「宮本君は将来何になる
心算か」と質問したという。そうすると「私は文学士になります」と宮本は即答した
という。どうして文学士になりたかったのか、叔父に誉められたことがうれしかった
からか、何か他に理由があったのか、本当のところは本人でないとわからない。しか
し、彼の少年期の夢は文学をすることであった、と言う推論を行うことは、叔父さん
に誉められたことと、先生の質問に答えたときのことをあわせて考えてみると、無理
ではないように思う。
大正11年に小学校を卒業して、1年間故郷で百姓をした。卒業したとき、在所の同級
生13人のうち故郷に残ったのは、宮本ただ一人だった。1年間百姓をして過ごした彼
に、出郷の日が訪れた。きっかけは祖母の死であった。その葬式のときに父の弟が、
「常一も田舎で百姓させるのでなく、大阪にでも出して勉強させてみては?」(『民
俗学の旅』)と言ったことから、宮本は大阪へ行くことができるようになった。確か
に、きっかけはこの出来事であったように思われる。しかし私は、宮本自身の心の中
では、以前から、外の世界に飛び出して行きたく思っていたのではないかと考えてい
る。「父が百姓をせよといえば、してもよいと思った」と『民俗学の旅』の中には述
べている。だが、そうではなかったかもしれないと私は思う。『郷土』(第8号)に
おいて米安晟氏が、「郷土の土とはなにか?」という題の文章の中で、このころの宮
本について書かれておられる。
米安氏によると、西方に半田(はんだ)と言う土地があるという。半田は、下田八幡
宮の森のすぐ上(南側)にあり、八幡宮の西側を通って、西方に通じ、白木山に登る
道の両側にある約20アールの土地だそうである。現在、半田は宮本常一の御次男であ
られる光氏が利用されている。この半田で昭和21年、米安氏が仕事をしていると、宮
本が通りかかり、こう言ったそうである。「ここで小さいときに父の手伝いをしてい
たが、あまりにも仕事がきつく苦しいので、百姓をするより学者になろうと思っ
た」。
この半田で宮本の父善十郎は、暗渠排水を行ったという。暗渠排水とは、これも米安
氏の文章によると、「良質の米や麦をたくさん収穫するために、水田として使うとき
は水が溜まり、裏作で麦を作るときは排水が良いよう、土地改良を行う方法があり、
それが暗渠排水」という。普通は、木の枝や藁や土管をいれるのだそうであるが、善
十郎はそれらのかわりに浦の浜の石ころを半田に入れ、暗渠排水を行った。暗渠排水
は米を作らない冬の仕事で、手はかじかみ、皸の切れる仕事であるという。このつら
い体験が、頭にこびりつき、思い出深い水田で作業していた米安氏にこの話をしたの
だろうと同氏は想像されている。
この話を考慮に入れると、宮本は少年のころは、学者によりなりたかったのではない
か、という方に私の想像は傾く。
宮本は大正14年4月に大阪へ出ることとなった。そのときに父は、いろいろなことを
宮本に対していった。それを宮本は書きとめたという。『民俗学の旅』によるとそれ
は以下のようなものであった。
�;汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ち
がよい
かわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺か、そういうこともよく見る
ことだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに
気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういう
ことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよく
わかる。
�;村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみ
よ、そ
して方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見下ろすようなことがあったら、
お宮も森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の
山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへはかならずいっ
て見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどな
い。
�;金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮
らしの
高さがわかるものだ。
�;時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを
教えら
れる。
�;金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむず
かし
い。それだけは忘れぬように。
�;私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには
何も注
文しない。すきなようにやってくれ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。
しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。
�;ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里
へ戻っ
てこい、親はいつまでも待っている。
�;これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。
そうし
ないと世の中はよくならぬ。
�;自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は
責めは
しない。
�;人の見残したものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはず
だ。あ
せることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。
「民俗学の旅」にのっている教訓は以上であるが、『家郷の訓』にも5つほどのって
いる。この二つを比べてみると、面白いことに気が付く。『民俗学の旅』の方には、
『家郷の訓』のほうにある5つのうちの2つが、なくなっているのである。それは、
「二、酒やタバコは三十までのむな。三十すぎたら好きなようにせよ」、「四、身を
いたわれ、同時に人もいたわれ」の2つである。この2つはどうして「民俗学の旅」の
方では欠落してしまったのであろうか。不思議である。
宮本の出郷に際しては、100人近い人たちが見送りにきた。これは後々まで宮本の心
の負担となったという。宮本は多くの人たちに知らせてはいなかったのだが、実際に
は、予想もしないほどの大勢の人がいたのである。そのため郷党の期待を裏切っては
ならないという気持ちになったそうである。
宮本は大阪へ出て、逓信講習所に入学した。宮本は、ここで電信技術の習得に苦労し
た。技術が習得できずに絶望していると、学課の成績がずば抜けているから退学には
なるまい、と宮本を励ましてくれる先生がいた。松本繁一郎といった。この先生から
いろいろなことを教わったようである。『善の研究』を読むことを薦められている。
また後に、松本先生が判事になると宮本に調書を読ませた。そして、犯罪の背後にあ
る社会状況についても考えなければならないことを宮本に教えた。
宮本は講習所を卒業して、大阪高麗橋郵便局に勤めることになった。郵便局で1年ほ
ど働いたころから、講習所を一緒に出た人々が、バタバタと倒れた。みな結核であっ
たようである。その頃宮本は、クロポトキンの『相互扶助論』を古本屋で見つけ、読
んでいる。また、大杉栄の訳で『一革命家の思い出』と同じく大杉栄の訳でファーブ
ルの『昆虫記』も読んでいる。また、人々の生活の中に入り込み、共に生活をした清
水精一氏の『大地に生きる』という本にも大きな感動を覚えたという。
ここでピョートル・クロポトキンについて少し触れておく。同時代社より出版されて
いる『相互扶助論』によると、ピョートル・クロポトキン(1842~1921)は、1890年
から雑誌『19世紀』に「相互扶助論」を連載した。単行本は1902年の発売という。ク
ロポトキンは、ダーウィンの影響を受けた「進化論」者の1人であったが、その内容
は、適者生存の法則、生物界の不断の闘争と生存競争の法則を強く批判した。これに
対置するものとして、相互扶助の原理を唱えた(クロポトキン著 大杉栄訳『相互扶
助論』)。
なぜここでクロポトキンに触れたかというと、宮本は、この「相互扶助論」に大きな
影響を受けているからである。宮本自身も『宮本常一著作集31 旅にまなぶ』の中で
こう書いている。
私は貧しい農家に生まれた。その私が民俗学というよりもむしろ民俗調査に興をおぼ
え、自分の生きている時間のうち、もっとも多くの時間をそのことにあてるように
なったのは、いろいろ考えてみてクロポトキンの「相互扶助論」が大きい影響を与え
ているように思う。そのことについて私は長い間気が付いてなかった。
(中略)
私がまだ二十歳にならなかったころ、大杉栄の訳したクロポトキンの『相互扶助論』
を読んだことがある。この本は後に『世界大思想全集』に採録され、また春陽堂文庫
の一冊としても出されており、それらをいずれも買っているから三回位は読んでいた
と思うのであるが、私はこの書物のことをすっかり忘れていた。それを最近大杉栄全
集が刊行されることになり、『相互扶助論』の紹介を図書新聞からたのまれて読みな
おしたとき、はしなくもすぎし日のこと、歩いて来た過去のことがいろいろ思い出さ
れてきた。そして、この一冊の書物がいかに大きく私の精神的な支柱になっているか
を思いおこした。
人々の生活が、互いに助け合いながら成り立っているものなのだ、ということを学ん
だことは非常に重要なことだったと思う。そうした視点によって、旅をしつづけたこ
とが、独特の人間味あふれる学問を作り上げたのではないかと思う。
上記の引用文において略した部分があったが、その部分にはまたクロポトキンとは別
に、重要なことがかかれていた。宮本は、「柳田國男にすすめられたことが私の生涯
を決定するようになってくる」と書いている。これはもう少し後のことになるが、こ
の文から柳田國男との接触が、彼の人生を決定する要因になったということが考えら
れてくる。
さて少しこの当時の日本についても考えたいと思う。当時日本は、日清、日露を続け
て戦争に勝ち、列強の仲間入りをしたのだと沸き返っていた。1905年、ポーツマス条
約の締結後には、いわゆる日本と英国の日英同盟が締結され、1907年には、日露協
約、英露協商が結ばれた。その結果として極東においてアメリカが孤立するように
なった。その影響からアメリカでの排日運動が起こっていた。1920年代になると移民
法が成立しいよいよ排日感情は高まった。宮本は出稼ぎの多い島で育ったのでこの事
に対し関心があったと思われる。
そのアメリカにおける排日運動について、宮本は当時このように発言している。1924
年に創刊された『山口県青年』という雑誌の1巻に宮本は、「国民の覚醒にまつ」
(米国のおける排日問題について)と題して意見を述べている。1924年の文章なので
当時17歳くらいであったと思う。
内容は、アメリカ国内の排日問題について、アメリカを罵るのではなく、自らを省み
よということ、さらには、当時の社会、思想に対して腐敗しきっていると批判してい
る。大杉栄惨殺事件等、当時起こった事件に触れつつ批判を行っている。そして、青
年に対しても「安逸を求め歓楽の影を追い浮華軽佻にして口に平和自由を説き心に己
が職業をいとう。女の尻を追い軟文学にふけり恋愛至上主義を受売して得々たるもの
あれば、都会病にかかって徒なる空想に耽る者、報いられざるを概いて自暴自棄とな
るものあり」と書いている。
続けて興味深い文章を書いている。「彼らは人生を詩なりと解し楽園なりと誤解して
居る。人生は決して詩や花で彩られては居ない。生即ち苦死即ち安逸。要するに人生
は活動と苦の連鎖である」とある。ここで、後年の民俗学者としての宮本常一を思い
合わせてみると対照的であるように思われてくる。当時はまだ17歳で、若いというこ
ともあると思うが、やや人生に対して否定的な見方を持っている。後年になるとそれ
は肯定的になっていくのである。たとえば、『宮本常一著作集13 民衆の文化』のな
かの次の文章によっても理解できると思う。「この学問を進めるためには、是非とも
生活の中に詩を見出してほしい。また見出さなければならない。私たちは人生に美し
い詩を見出そうとしているといえる」。
この文章と比べてみると、1924年時とはやはり対照的だといえると思う。この時点で
は「生即ち苦」、「死即ち安逸」なのであるが、後年にはそうした考えは微塵も見る
ことができなくなる。そうすると、どのあたりかで人生観の転換があったということ
になる。
この次に、宮本は農村の青年に提言を行っている。宮本は、農村が恵まれていないと
認めたうえで、青年たちに海外への発展を促している。その具体的な手段としては、
殖民手段をあげている。政府が農村を援助してくれないのであれば、農村の独力独歩
を説いている。そして地方生産主義を起こし、農村の興隆に努力せよと説いている。
それからこの排日問題の締めくくりとして農村における努力とそれに伴う国の向上に
こそ、米国は日本の尊い姿を見出すであろうと述べている。後年に宮本の唱えていた
地方主義と同質のものかどうかはわからないけれども、この当時より地方の青年の力
に期待していたという事実は、大変興味深いと思う。この文章は、後の宮本との人生
観の違いと地方主義の類似を示しており、宮本常一という人を考える上で、いろいろ
な示唆を与えてくれる。
大正15年、宮本は大阪府天王寺師範学校の第2部を受験して合格した。この学校で宮
本は2人の優れた教師と出会った。国文学の金子実英と地理の山極二郎であった。宮
本は金子先生から、近松や西鶴を読むことを薦められた。また、ドイツの哲学者で
あったマックス・スチルネル(Max Stirner)の英訳本をテキストとして、英語を教
えられたという。その本は、「唯一者とその所有」という邦題がついていたという。
原題は「Der Einzigeund sein Eigentum」といい、1845年に出版されている。この
「唯一者とその所有」
という本には、万有は自己にとって無である、と説かれているそうである。宮本は、
この本を読んで、世評とか栄誉とかを気にかけない人間になることを学んだという。
また、手工の佐藤左先生には、古美術に対する眼を開かれたという。山極先生の研究
が、宮本にいろいろな示唆を与えてくれた。後年河野通博氏が、宮本の著作中の地理
学的思考について尋ねると、宮本は、師範学校時代によい地理の先生に巡り合ったお
かげだ、といったという(『同時代の証言』より)。
師範学校を卒業したあと、5ヵ月ほど兵隊として過ごした。それから大阪府泉南郡に
あった有真香小学校へと赴任した。赴任先の有真香の西南6キロの所に木積という村
があり、そこに釘無堂という寺があったという。宮本はそこが好きで、何十回も通っ
たという。そして、そこの仏像を何度も見ていたという。その仏像を基準して、ほか
の仏像も見るようになったという。このことから、何事も基準となる具体的な物を持
つことが大切であるということを教えられたという。
昭和3年4月(1928年)、天王寺師範の専攻科に入学している。『民俗学の旅』では、
文化史を専攻とあるが、『同時代の証言』の小谷方明氏によると、日本歴史学科だと
いう。ここでまた、金子先生に教えを受けることになった。また西田幾多郎の弟子で
あった、森信三先生の講義も聞いた。そこで一歩退いてものを考える態度を学んだと
いう。
ここまでの師範学校時代の宮本を見て感じるのは、様々な学問の領域に関わっている
ということである。金子先生は文学者であり、山極先生は地理学者であり、手工の佐
藤先生からは、古美術についての眼を開いてもらい、そして森先生は哲学者である。
逓信講習所時代も加えると松本先生は、判事となり宮本に調書を読ませ、いろいろな
ことを教えている。この時代に宮本に影響を与えた人物の中に、民俗学者や歴史学者
がいないということは、非常に面白いことだと思う。
専攻科を出て、宮本は泉南郡の田尻小学校へ勤めることになった。昭和4(1929)
年、宮本22歳である。ここでは、日曜日になると子供たちと連れ立って、村を中心と
して10キロくらいの範囲を歩いた。そして子供たちにこう言った。
小さいときに美しい思い出をたくさんつくっておくことだ。それが生きる力になる。
学校を出てどこかへ勤めるようになると、もうこんなに歩いたりあそんだりできなく
なる。いそがしく働いて一いき入れるとき、ふっと、青い空や夕日のあたった山が心
にうかんでくると、それが元気を出させるもとになる(『民俗学の旅』)。
宮本は、和泉の山手地方の溜池を、一つ一つ丹念に見て歩いたことがあるという。堤
防の築き方、用水路のつけ方、それらをたどって下流のほうまで歩いていったとい
う。それは、師範時代の恩師山極先生の影響だった。そうして、池の中にある人間の
意志を読み取ろうとしていた。この田尻小学校へ赴任したとき、宮本は二十を少し超
えたくらいの年齢であった。この頃村を中心にして歩き回っていた。当時彼の生徒で
あった金田久代さんが『同時代の証言』において、田尻小学校時代の宮本について述
べている。金田さんは、「この頃から既に、このような民俗学的なことに興味をお持
ちだったかと思われます」と述べている。また当時の同僚だった方も、『同時代の証
言』の中で、「学校での教育も非常に熱心であり、ある目的を持ってこつこつと自分
の勉強をしていたように思う」と書いている。この2例だけからの判断だが、彼は、
この頃から民俗学に興味を持ち、自分なりの研究を行っていたのではないかと思う。
彼が民俗学という学問を知ったのは、20歳の頃であった。そのあたりのことは、『民
俗学への道』に詳しい。
がんらい、私の家は伝承型の人の多かった家であったから、幼少の頃から昔話や伝説
については多くを知っていた。したがって、話題の中にもそういうものが多かったの
である。ところが私の話を聞いていた友の一人が、「そういうことは学問的に研究す
ると面白い、それには柳田國男という人がいる、大変な学者である。」と教えてくれ
た。そのときはじめて、柳田先生の名を知ったのである。しかしその学問が、どうい
う状態にあるかはぜんぜん知らなかった。
それからまもなく、店頭で「旅と伝説」という雑誌を見かけて買った。すると、この
雑誌に柳田先生が「木思石語」を連載しはじめられた。かかれていることの半分もわ
かりはしなかったけれどもたいへんひきつけられて読んだのである。
宮本は、田尻小学校へ赴任したときにはすでに民俗学という学問の存在は、しってい
たようである。しかしながら、田尻小学校時代に宮本が研究していたのは純粋に学問
のためというよりは、むしろ教育効果をあげるための民俗研究であったように思われ
る。どうしてそのような事が言えるかというと、『家郷の訓』の中に次のような記述
があるからである。
「二十歳をすぎて小学校の訓導となり、和泉の農村で十余年を過ごした。その間たえ
ず教育の効果を十分にあげ得ないことに苦悩した。そしてその原因の一半はその村に
おける生活習慣や家庭の事情に暗いことにあるのを知った」、「民俗学という学問
を、趣味としてでなく痛切な必要感から学びはじめた動機はこの苦悩の解決にあっ
た」という。この頃の宮本の重心は教育にあったようである。
5 余儀なくされた帰郷
昭和4年の冬休みに、宮本は徳島の裁判所に勤めていた松本先生を訪ねた。そこで昭
和5年の正月を迎えた。その大阪への帰途に高松で傘を持たずに歩きつづけて、ずぶ
ぬれとなった。そして風邪をひいた。田尻村に帰り着くと高熱を出した。肋膜炎で
あった。郷里からは父母もかけつけた。学校の子供たちは、徹夜で看病してくれた。
そして3月末には郷里へ帰って療養することになった。当時肺の病といえば、十中
八、九は死んでしまう病であった。
病による志半ばでの帰郷となった。それも死と隣り合わせの帰郷である。彼がひそか
に志していたかもしれない学問への夢や、学校の子供たちとも離れていかなければな
らなくなったのである。宮本は、月性の詩「将東遊題壁」にあるような「学若し成る
無くんば死すとも還らじ」というような気持ちで、故郷を出て行ったのではなかった
かと思う。それだけにこうした形での帰郷というのは口惜しかったと思う。そして
「心ひそかに来るべきものを待つ気持ちになった」という。
「父と母にまもられての旅は心を和やかにした。私の生涯恐らくこの旅ほどしみじみ
したものはないであろう。地理に明るい父は、瀬戸内海の島々の名など一々教えてく
れられた。母は私を支えるようにしてそばにいた」(以上『生命のゆらめき』所収
「更生記」より)。
この帰郷にさいして宮本は次のような歌を詠んだ。
名なさずば再び見じとちかひたる 故里の土病みてふみたる
宮本の正直な気持ちが吐露されている。
郷里では、蚕室として作ってあった家の二階が宮本の寝室となった。5月になると、
宮本は再び発熱し始めた。血痰も出た。故郷での生活は、わびしかったそうである。
肺もいけないといわれたので、村人たちも快く思わなかったそうである。姉は一里ば
かりある所の小学校へ勤めていたが、毎日家から通勤を始め、母は、出来るだけ宮本
のそばにいてくれたが、田畑が忙しくなると、そうばかりもしていられなくなったと
いう。
夕方など、もう暗くなっているのに母も姉も帰らず、灯もともらぬ部屋に、一人ポツ
ネンとねていると無性にさびしくなって、母をよんではないた。「何の?」。二階の
上がり口から(私は二階にねていた)顔を見せて母が言うと、わたしはそれで安心し
た(同上)。
ここを詠むときは、宮本の身になって読むとその気持ちがよくわかると思う。夕方と
なり、あたりには次第に闇の気配が濃くなってきている。しかし、母や姉はまだ戻っ
て来ていない。一人きりである。夕方になると人間の体温は上昇する。肺を病んでい
る宮本は、ただでさえ熱っぽい。夕方になるとさらに微熱が続いたであろう。体は、
だんだんと重苦しくなる。寝汗が出始め、不快な汗が体をぬらす。そんな時、死がふ
と頭をかすめる。えたいの知れぬ恐怖がまきおこる。あたりはもう暗い。部屋に灯は
なく、真っ暗な中一人寝ている宮本がそこにいるのみである。息苦しくなってくる。
死の恐怖と孤独感が堪らず母を呼び寄せる。そうして状況で母が「何の?」と言って
その顔を見せてくれれば、宮本は安心できただろう。母の存在が何とも心強く見えた
はずである。
以上は、私の推測であるが、こういうこともまた必要ではないかと思った。病中の父
はやさしかった。「ポツリポツリ田や畑の話をしたり、野の色のかわって行く事など
を話して」くれたのだという(同上)。宮本には父の存在は頼もしかった。善十郎は
母によく叱言を言う短気な父だったというが、宮本が「母を叱ると私が悲しくなるか
ら」というと、それきり叱らなくなったという。
誰も訪れてこなくなった家に一人きりでいると、とても寂しかったようである。そう
して時に来訪者があるととても嬉しかったという。それは医者の二宮さんであった。
また、スミちゃんとよんでいた、田尻小学校時代の教え子からの手紙も宮本を力づけ
てくれたようである。
いつも周りに人がいるわけではない。そうした時は、本を読んでいたようである。帰
郷に際しては、木谷蓬吟の編集した『大近松全集』、『長塚節全集』、『万葉集古
義』を買っている。さて『万葉集古義』とは、どのような本であるかというと、一言
でいえば、「万葉集」の注釈本である。鹿持雅澄(1791~1858)の手による「万葉
集」の注釈本である。1857年(安政4年)に成稿している。全部で141冊からなり、そ
の内訳は、万葉集本文の注釈95冊を中心として、枕詞解5冊、人物伝3冊、品物解5
冊、名所孝6冊などとなっている。この『万葉集古義』は、近世万葉集学の集大成と
言われている。
これらの帰郷に際して買った本のほかに、宮本は、主なものとして、「万葉集」の他
にも、ファーブル、芭蕉、正岡子規などを読んでいる。
ここで少しだけ宮本常一を離れて長塚節(1879~1915)について述べたいと思う。一
般に病床において宮本は万葉集のみを読み、それを半分覚えたように思われている
が、彼が病床で読んでいた本を少し調べてみると、万葉とのつながりを持つ人々が見
出されてくるのである。『万葉集古義』はもちろん長塚節も万葉とつながりを持つ人
物の一人である。長塚節は、一般には、夏目漱石の勧めで書いた『土』で有名である
が、彼はまた歌人としても有名であった。そして、万葉集の研究も行っている。明治
36年6月5日、根岸短歌会の最初の機関誌となる『馬酔木』の第一号が発表された。32
頁。定価は10銭。この雑誌の編集委員には長塚節もその名を連ねている。この号にお
いて長塚節は、「万葉集巻の十四」という万葉集論を発表しているのである。その後
節は、次々と同誌上において万葉論を発表した。
「東歌余談(一)」明治36年8月10日
「東歌余談(二)」明治36年10月13日
「万葉口舌(一)」明治37年2月27日
「万葉口舌(二)」明治37年5月5日
「万葉口舌(三)」明治38年2月20日
「万葉口舌」は何れも巻十六の研究であり、東歌は巻の十四である。節の研究は、こ
のように巻の十四と十六という特殊な巻を対象としたものであった。
節の万葉集の研究がその実作に及ぼした影響としては、長歌を作るという創作活動に
認められることが指摘されている。明治35年のなって短歌の製作が復活すると、短歌
にも万葉集の影響が顕著になってくるという。しかしながら、最晩年の「鍼の如く」
に至ると万葉調は、表面には現れておらず、完全に長塚節独自の歌境に達していると
いう。この歌境に達することができたのは、自らが万葉調時代と認め、万葉集の作品
を自作に取り入れることに努めた時期があったのである(以上大戸三千代著『長塚節
の研究』を参照)。
宮本は長塚節に傾倒していたように思われる。宮本と親しかった高松圭吉氏が指導す
る演劇部が『土』を上演することになったとき、宮本は、『土』よりも長塚節自身を
描くことを勧めたという。そして次のような話を高松氏に語ったという。
長塚節が九州大学の病院にいて、そこで病没する一寸前彼は観世音寺をたびたび訪ね
たらしい。ワシ(宮本)がこの寺を訪ねたときまだ坊さんが生きていて、長塚節の話
をしてくれた。節がふらりとやってきて本堂をみたいというから案内していったら、
ご本尊をしげしげとみていて、これはもったいない、こんなごみの中に置いておくの
は本当にもったいないと心から痛恨の叫びをあげるんじゃノウ。それが全く何のてら
いもない態度なんで、お前さんはどうした人かときいたら、歌よみだということ
じゃった。それからたびたびきたが、まんじゅうなんかよく手土産にもってきた。く
るとうちの子がだきついていく、
長塚節はその子を膝にのせて頭をなでていた。肺病やみで、しかも相当な重患だった
のに、わしはせがれに、そばへ寄るなともまんじゅうなんて貰って食うなともいえん
じゃった。長塚節という人はそういうおそろしい病気のかげをちっとも人に感じさせ
ない人じゃった。と和尚が話していた。どうじゃ長塚節というひとがわかるじゃろう
が。(『民衆の生活と文化』)
と宮本は語ったという。
また、長塚節は、正岡子規の門下であった。明治33年に子規に入門している。正岡子
規は、「俳句短歌の革新をした文学者であり、また秀れた指導者でもあった子規は、
多くの俳人、歌人の弟子を育成した。各自に潜在する才能を見つけ出し、それぞれの
道を歩むことができるように誘導する特殊な能力を子規は備えていたように思う。節
をして歌人の道に導いてくれたのは子規であった」という(『長塚節の研究』)。ま
た節は、子規の晩年、最愛の弟子とも言われている。
正岡子規自身も短歌において万葉の影響が見られるという。子規は、「短歌に写実の
手法を取り入れながら、この短歌的でないものを脱皮していく、その過程が万葉調を
摂取していく過程」であったという(同上)。
以上、万葉集と絡めて、長塚節、正岡子規に触れてみた。これによって少しばかり、
宮本の病床時におけるその読書傾向を知ろうとした。上に見てきたことから「万葉集
古義」を手引きとして「万葉集」を読み、かつ独学していたのではないか、と推測す
ることもできる。一方で、長塚節と正岡子規の師弟の著作をも読んでいる。この両人
は、その短歌の境地に至る過程において、万葉調を取り入れる努力をし、そうした時
期を経ることによって、自らの境地を切り開いている。万葉集を半分憶えてしまった
という宮本には、この二人の歌人は惹かれるものが多くあったのではないかと思う。
もちろんこれだけではなく、ファーブルの「昆虫記」や近松などの本も多く読んだの
ではないかと思われる。上記の長塚節、正岡子規のほかにも宮本は多くの詩人に影響
を受けていたようである。『同時代の証言』の中の高松氏の文によると、宮沢賢治、
石川啄木から受けた影響もまた大きかったという。こうした詩人からの影響というも
のも、大きく考えなければならないと思う。例えば、正岡子規の『写生』や、宮沢賢
治の『心象スケッチ』などである。こうした詩人からの影響が歌はもちろんのこと、
彼の学問や、人間性に影響をどれ位あたえたのかなど、多くのことを考えてみなけれ
ばならないのかもしれない。
万葉集は彼の旅に影響をあたえていると思われる。病床で万葉集の歌を半分近くも憶
えてしまうほど繰り返し読んだ万葉集から、宮本は旅の心とでも言うものを学んだと
いう。「ほんとうの旅は万葉人の心を持つことによって得られるものではないかと思
うようになった」(『民俗学の旅』)。
ここまで幾人かの詩人を見てきたが、この人々を眺めているとあることに気が付くの
である。長塚節、正岡子規、宮沢賢治、石川啄木、これらの人は皆、肺の病を患って
いるのである。宮沢賢治は肺炎によってではあるが、その他の人は皆肺病である。こ
うした事をみて、宮本がどれほど肺の病について思い入れというか、こだわるものが
あったと考えるのは、深読みであろうか。宮本自身がこのころに読んだ短歌について
は、卒業論文に宮本常一の短歌について書かれた土手正恵さんという方が研究されて
いるので、ここでは立ち入らない。
以上が宮本の病床における読書傾向についての考察であった。簡単な考察だったが宮
本に対する万葉の影響を少し知ることができたのではないかと思う。
次に、宮本の療養期間そのものについて考えてみたいと思う。私は、この故郷での療
養期間こそ彼の人生において決定的な意義をもつものであると思っている。それはど
ういう理由からであるか、それを以下考えていきたい。
私は、この空白とも言える療養による2年間がなければ、宮本常一は、民俗学者には
ならなかったであろうと思う。もし、なったとしても今日我々が知るような宮本独自
の民俗学を打ち立てることはなかった思う。私は、この2年間が、彼の人生において
決定的な意義をもっているものだと確信している。宮本は、病がよくなると、意識的
に郷里の人たちから聞き取りを開始している。そうした時に柳田國男が『旅と伝説』
で昔話を募集している事を知って、締め切りを過ぎてはしまったが、ノート2冊分の
ものを送った。すると、柳田から長い手紙と『民間暦小考』、『北安曇郡郷土誌
考』、雑誌『郷土研究』が送られてきた。そして『郷土研究』と『旅と伝説』への投
稿を勧められている。このことが機縁となって、昭和9年の秋、柳田が、京都大学で
の集中講義に来た際に、柳田と面会することができた。そこで、沢田四郎作、桜田勝
徳、岩倉市郎などの民俗を研究している人々を教えられている。そして、これらの
人々と語らって、大阪民俗談話会ができたのである。この会において後に師と仰ぐよ
うになる渋沢敬三とも出会っている。こうしたことから新たな未来が開けていったの
であった。
こうしたことのすべて発端は、宮本が柳田にノートを2冊分も昔話を書いて送った事
から始まっているのである。もちろん宮本が、以前から民俗学を知っていたというこ
とや、柳田國男の名前を知っており、民俗に関する雑誌を読んでいたということも非
常に大切なことではある。しかしながら、このとき宮本が、例えば締め切りが過ぎて
いるからなどで、ノート2冊分の昔話を送らず、柳田國男を接触しなければ、後の一
連の人々との出会いは、なかったかもしれない。そうすると大阪民俗談話会もなかっ
たことになるし、なによりも渋沢敬三とも出会わなかったかもしれない。
この療養期間が宮本の人生の中で決定的重要性を持つ時期であると、私が考えるのは
こうした理由からである。「神は時を征服しても、知者の幸福までは征服しない」
(セネカ)という言葉があるが、まさしく宮本は病に倒れて2年間という年月を、病
に征服されはしたが、しかしその幸福、未来までは征服されたわけではなかった。
宮本の圧倒的な仕事量の背景には、彼自身がいつも抱えていた病気の再発への恐れが
あるのではないかと思う。宮本は、「三十歳まで生きられたらひろいものだ」いわれ
ていた。私たちは宮本が30歳以上生きたことを知っているが、当の本人は、このこと
を知ったときどう思ったのであろうか。大変なショックであったと思う。宮本は、31
歳まで生きた時には「利子がついたと思ってうれしかった」という。42歳のときにも
危うく命を落としかけ、46歳のときにも発病している。こうした病気の連続が、宮本
を切羽詰まらせるような思いで生きさせた要因ではないかと思う。宮本の仕事量を支
えたというよりも、仕事に追い立てていった思いの一端にはこうしたことの影響もあ
るのかもしれない。
さて、帰郷から1年ほど経って、病がよくなり外を歩き回れるようになると、手帳を
懐に歩き回った。聞き取りをはじめたのであった。二階で孤独に臥していた時とは正
反対に毎日が楽しかった。
起きて歩ける様になってからの一年は実に明るくたのしかった。父の明るい顔、母も
姉も晴れやかになった。私は毎日歩きまわり、本をよみ、近くの寺へ行って書庫の整
理などをした。ファーブルを読み、万葉集を読みまた一日中渚辺に坐りこんでいるこ
ともあった。幼な子たちの仲間に入って氏神の森でひねもす暮らすこともしばしばで
あった(『生命のゆらめき』所収「更生記」)。
「知者は運命のただなかで魂をみがき、運命を脱する」というセネカの言葉がある
が、まさに魂を磨き、運命を脱した宮本常一は、ここに高らかに再生を宣言するので
ある。
少なくもあの日は私の第二の誕生の日であった。(同上)
昭和7年、健康の回復した宮本は、再び上阪し、大阪府泉南郡北池田小学校の代用教
員として勤めることになった。
ここで再び宮本の父である善十郎について書いておきたい。善十郎は宮本が上阪した
同じ年昭和7年に没している。しかしながら、宮本の心の中には生き続ける父の姿が
あった。
父、亡くなっていても父は私の最大の庇護者である。私の心のうちに父は死んではお
らぬ。未だしっかりと生きていて下さる(同上)。
善十郎の生涯は終わったが、その志までは失われることはなかった。彼の志は、確実
に息子たる宮本常一に受け継がれていったといってよいと思う。そういう意味におい
ては、善十郎という人は生き続けたといえる。私は、この善十郎という人を考えてい
るときに、ふと宮本の姿と重なってしまうことがある。そうした時に、やはり父子で
あるのだなぁ、と思ってしまう。
昭和9年に宮本は初めて柳田國男と対面することになった。そこで多くの民俗研究家
の名を教えてもらった。そして、それらの人々を中心として大阪民俗談話会が発足し
た。 昭和10年3月、その大阪民俗談話会に突然渋沢敬三が出席した。この日が、宮
本と後に師となる渋沢敬三がはじめて互いに顔を合わせた日となった。夏には東京で
柳田國男の還暦祝賀会と記念講習会が開かれた。また、この年渋沢敬三から「まだ一
つの村を対象とした漁村民俗誌というようなものができていないから、書いてみるよ
うに」と言われ(『宮本常一著作集1 民俗学への道』)、一冊に纏め上げたのが
「周防大島を中心としたる海の生活誌」であった。
同じ年の12月に玉田アサ子さんと結婚している。昭和10年から11年にかけて、大阪府
南河内郡高向村滝畑の左近熊太翁をたびたび訪れている。そのときの聞き取りは、昭
和12年になってアチックミューゼアムから『河内国滝畑左近熊太翁旧示談』として刊
行された。この本を左近熊太翁に持っていくと熊太翁は目を拭ったという。そして翁
は宮本に向かってこういったという。「あんたにだけは死に際に居てもらいたい」。
この言葉は宮本の心を揺さぶったという。
6 民俗学者としての出発
昭和14年に再び転機が訪れた。それまでは学校に勤めながらの民俗研究であったわけ
だが、アチックミューゼアムに入所し、民俗学に専念することになったのである。
当初は満州に行く予定であった。恩師である森先生から建国大学への勤務を勧められ
ていたのである。しかし、その話を耳にした渋沢が宮本に、「満州へ行くのなら、そ
のまえに日本を一通り見ておくように」といって、アチックに入所することを勧め
た。渋沢の日本行脚の勧めには、宮本の視野を関西から全国へとひろげてゆくという
意図も含まれていたようである。
小学校の教師から旅人へ、この境遇の変化は、宮本の生き方にも変化を与えた。それ
までは、学校で子供たちを教え、家に帰って夜は眠り、朝になればまた起きるという
生活であった。それで給料を貰うことができた。しかし、教師を辞め東京に出てきた
とき、宮本はハッと気が付いたのだという。「あれ、もう俺はこれから先、月給とい
うものがなくなったのだ。そうして二十四時間というものが自分のものになった」。
こうしたことに気が付いた宮本は月給を失った代償として、空っぽの時間を手に入れ
たのである。自身が何にでも使うことのできる空の時間。しかし、その時間を使って
生活を立てていかなければならない。その時間をどのように使えばよいか、宮本はこ
のように考えていたようである。
与えられた二十四時間を最も充実して生きていって自分の力に応じて充実して生きて
行く、そういうことによって始めて自分というものが生活を打ち立てることができる
(『宮本常一著作集12 村の崩壊』)。
今という時間を充実させる。これほど大切で、これほど難しいことはないであろう。
渋沢は宮本に、「資料の発掘者になれ」ともいった。渋沢の言葉は宮本の心に指針を
あたえる。渋沢敬三という師から指針を与えられたことで宮本は「生きてゆく道」、
「仕事に疑問やなやみを持つことがほとんどなかった」という(『民俗学の旅』)。
初めての旅は島根県八束半島へ、そこでは田中梅治翁に出会っている。その人の著書
には『粒粒辛苦』という本があった。またこの人は、正岡子規の弟子でもあった。昭
和15年には、屋久島へ行った。屋久島から種子島へ、それから鹿児島へ行き、鹿児島
から大隅半島へ行っている。その後東京へ帰ると宮本の満州行きは、中止となってい
た。そのあと5月には鹿児島県宝島などへも出かけている。この年の宝島を訪れたこ
とは大変収穫があったという。宝島は島外との交渉が限られていたので、島内での自
給中心となっていた。この宝島を見たことが「古い村落構造がどういうものであった
かを考えていく上で実に多くの示唆をあたえてくれた」という。この時期には、すで
に民俗を調べるだけではなく村落構造にも興味を持っていたことがわかる。宮本が早
くから村落構造に興味を持っていたことについては、いくつかの理由を考えることが
できると思う。師範時代に地理の先生から薫陶を受けたことも影響しているかもしれ
ないし、『相互扶助論』を読んだことで人々が集まって住んでいるということに興味
を持ったのかもしれない。宮本は、相互扶助的なことに関心を察w)福ソ、そうした
話を多く集めていたようであるから、自給が島の中心であり、島民全体が目のつんだ
組織をもっている宝島のような島を訪れたときには、大いに興を覚えたのかもしれな
い。
11月になると、東北を歩き始めている。その当時東北には、話し好きの人が多かった
という。そうした人に生きてきた路や土地の農業技術を話してもらった。この東北へ
の旅をしていたときに宮本は菅江真澄という江戸期の旅人を知った。しかし、名前だ
けはもう少し前から知っていた。昭和9年に柳田國男に会ったときに菅江真澄の名前
が出て、宮本はその名を記憶していたという。だけれども、菅江真澄その人に心を惹
かれ、本当の意味で知ろうとし、また知ったのはこの東北への旅の中でのことであっ
たようである。それについてひとつのエピソードがある。宮本が津軽半島の十三湖の
北側、相内という村を訪ねたとき、村長の家に泊めてもらうことになったという。そ
の時村長さんが「わしの家へおまえによく似た人が来て、とまったことがあるんだ」
と言った。「それはだれですか」と宮本が問うと、村長さんは、「菅江真澄というも
のだ」と答えた。その時宮本は菅江真澄が「それほど印象深い人であったんだという
ことがわかった」という(『宮本常一著作集18 旅と観光』)。
宮本は、真澄にいろいろなことを教えられた。それは、「とにかくわれわれがほんと
うに心をむなしくするというか、構えざる態度で村の中へはいっていくときには、す
べての村人が自分と同じように待遇してくれるものである」ということや「ものを調
べるというのは、ただ相手方に向かって質問をして、その質問の答えが出てくるもの
ではなくて、ほんとうに相手の気持ちの中にはいり込んでいくことによってのみほん
とうの答えが得られるものである」ということなどである。宮本は菅江真澄にずいぶ
んと共感していたようである。宮本は、菅江真澄は誰にも知られず日々を誠実に暮ら
している人々の情にほだされたから、郷里にも帰らず東北の地にとどまり続けたので
あろう、と推測している。しかしながら、このような推測は宮本自身にも当てはまる
かもしれないと思う。旅先で出会った人々の心に打たれるからこそ、宮本も旅を続け
たのではないかと思う。そうした所に人が宮本のことを菅江真澄のような旅人である
と評する由縁があるのだろうと思う。
昭和16年1月には郷里に帰り、それから愛媛、高知、徳島各県を歩いている。4月に
は、淡路へ旅立っている。このあたりの旅については『民俗学への道』に詳しい。そ
の当時、渋沢敬三は魚名の研究から「延喜式」の水産物の研究に熱中していたと言
う。その関係もあって宮本は、瀬戸内海の魚名調査のみの旅に出ている。このときに
「瀬戸内海の漂白民について興味を持つように」なり、また「農業は地表を利用して
成立するが、水産業は一つの海域、沖合、海面、海中、海底を利用し、それぞれの漁
法が成り立っていることを知った」という。漂白漁民への関心が、後の漁民の陸上が
りにおける定着の仕方の研究につながっているように思われる。
その後鵜飼の調査のために、新潟県大白川、福井県大野、疋田を歩き、続いて土佐の
寺川を経て、大杉でも鵜飼の調査をしている。
昭和17年は胃潰瘍を患って半年ほど旅を中断した。9月になると淡路由良のテグス、
播磨の釣り針製造などの調査を行っている。その後12月にも釣り針、テグス、揚ヶ浜
製塩、鵜の取り方などを播磨、京都、丹後、越前、能登の各地で行っている。この旅
についても『民俗学への道』に詳しい。
昭和18年1月には三河に花祭りを見に行っている。その旅から帰ると渋沢に今年の旅
はもう中止にするようにと言い渡された。そのために大きな旅はできなかったが、代
わりに東京の郊外を歩いたという。その郊外の生活は、東京の華やかさに対して驚く
ほど古風であったという。「不便な山中や海岸ばかり歩いて、そこに前代生活の残存
を求めようとしたが、足もとにもそういうものはあった」という(『宮本常一著作集
1 民俗学への道』)。
昭和14年から18年まで宮本の旅については、『民俗学への道』、『民俗学の旅』を参
照した。単に記述を拾ってみただけという感もするが、自分で一度見てみるというこ
とは大変勉強になったと思う。宮本の後の研究の基礎となるものの多くがこの時期の
採集によるものであるように思う。戦後になると農村、山村、漁村はこの時期に宮本
が旅をした姿から変わっていき古風なものも薄れていったという。だから、この時期
に古風を多く残す村々を集中的に訪れる旅ができたということは、彼自身の学問に
とって大変重要なことであったと思う。
戦争も激しくなり、統制経済がしかれ、軍部が大きくのしかかる状況においては、苦
労も多かったのではないかと思う。しかし、民俗学への思いは断ち切られるものでは
なかったようである。
民俗採訪はいくたび中止しようと思ったかわからないけれど、ここまで来てみると、
たとえどのような困難な事情にあっても、どんな片隅にいても、つづけたいと思うに
至った。この美しい国土の、平和を愛する人たちの姿を少しでも書きとめておきたい
と思った(『宮本常一著作集1 民俗学への道』)。
7 民俗誌から生活誌へ
昭和19年1月東京を引き上げて大阪へ帰った。大阪へ帰ると、奈良県郡山中学校に勤
めることになった。宮本によれば、「この学校に勤めた1年4ヶ月ほどの間が私の生涯
にとってはじめて教員生活をした頃とともに一番たのしい時」であったという(『民
俗学の旅』)。この学校では宮本のことを慕う多くの生徒に恵まれていたようであ
る。
昭和20年4月、大阪府庁に勤めることになり、郡山中学を退職している。目的は戦時
下の農村実情調査であった。7月9日、堺市に空襲があった。この空襲によって、書物
やノート、原稿を一切焼いてしまっている。原稿一万二千枚、抜書きしたカードも同
程度、未整理の採集ノート百冊写真約千枚、それと蔵書を一度に失ってしまってい
る。「最初よき資料提供者たらんとした念願さえが一場の夢と化し」てしまった
(『宮本常一著作集1 民俗学への道』)。全てを失ってしまった。「よき資料提供
者」となることができなくなる。
宮本常一という人の人生を眺めたときに、私が気づくことは、逆境にぶつかったとき
が、その人の人生の転機となっていることである。最初の転機は病を患って帰郷した
時であった。その療養期間において柳田の知遇を得たことから、民俗学の道が開けて
いった。そして2度目の転機がこのときであったと思う。それは、調査資料の大半を
失ったことで、学問の軌道修正をせまられた事と共に別の方面へも力を注ぎ始めるか
らである。全てを失った宮本は、「学問のことはしばらく断念して、方向を見失った
人びとのためによき友でありたいと思って終戦後を過ごすことにした」という。しか
し、学問をあきらめてしまうこともできなかった。「いったんここまで歩いて来てみ
ると道を変えることもできなかった」という(同上)。学問をあきらめてしまうこと
はできなかった。かといって、敗戦で混乱している人々を放っておくこともできな
かった。
終戦後の10月には、北海道へ入植者を連れて行った。その時に北海道を一巡してい
る。また、大阪府下を戦時のようにまわってみてもいる。そこには、生き延びようと
必死に努力している人びとが大勢いいた。エネルギーがあった。栄養失調になった人
は少なくて宮本はホッとしたという。そして大阪府への勤務は昭和20年の12月31日に
辞めている。
家を焼かれたため、宮本は一家で故郷へ帰った。しかし1ヶ月もたたないうちに、大
阪府に勤めていた頃に親しくなった人たちから農業指導にきてくれといわれ、再び大
阪へ出て行った。
私は、宮本のこのあたりの性格は彼の父である善十郎に似ていると思う。善十郎も人
に教えを請われると寝食を忘れて懇切丁寧に教えたという。「父没すればその行動を
観る」というが、この言葉がよく当てはまるように思う。
その後、東京へと行き渋沢敬三と会った。その時に日本が軍備を放棄することが話題
となった。宮本が「軍備を持たないで国家は成り立つものでしょうか」と渋沢に尋ね
ると、「成り立つか成り立たないかではなく、全く新しい試みであり行き方であり、
軍備を持たないでどのように国家を成立させていくかをみんなで考え、工夫し、努力
することで新しい道が拓けてくるのではないだろうか。一見児戯に等しい考え方のよ
うだが、それを国民一人一人が課題として取り組んでみることだ。その中から新しい
世界が生まれてくるのではなかろうか」と渋沢は答えたという(『民俗学の旅』)。
渋沢にそういわれて宮本は考えた。その渋沢の言葉はその後も宮本の心の中に残った
という。そうした平和の願いのこもった言葉は、宮本の学問にも影響したように思わ
れる。
学問をするということも、人が人を信頼する関係をうちたてていくためであり、どの
ようにすれば安んじて生活していくことができるのかを見つけていくためのものであ
ると思う。そしてそういうことについて、私にできることは何であろうかと考えた
(同上)。
そのうえで農民としてなすべきことは、国民の食料を確保するように努力すること。
その次に、国民の一人一人が安定した生活ができるようにすることだと考えたとい
う。そうした考えからすると、学者たちの言うブルジョワとプロレタリアという対比
には、疑問を感じていたようである。そうした階級的な隔たりよりも、むしろ地域の
格差がより存在しているのではないかと。
山村を歩き、魚村を歩き、僻地を歩いてみると、そこに住む人たちは都市に住む人た
ち以上に働いている。その生きざまは誠実にみちみちているのに貧しい。それがその
まま放置されている。国が豊かになるということは隅々まで豊かになることでなけれ
ばならない(同上)。
また地域と地域が横への広がりを持つこと、その社会に住んでいるリーダーを大切に
していくこと。こうしたことによって地域の開発も進んでいくのではないかと考えた
という。
宮本の学問の方向性が戦前と戦後では、違ってきていることが少しずつ明らかになっ
てきたように思う。調査資料の多くを失っても学問をあきらめることはなかった。戦
争が終わり、新たな出発をしようとする人々の良き相談相手であろうとした。昭和14
年に渋沢のアチックミューゼアムに入所して以来、渋沢に資料の発掘者になってくれ
と言われたこともあって、良き調査者たらんとしたが、戦災によってそれまで蓄積し
てきたもののうち自らの頭のうちに納まっているもののほかは、すべてを失ってし
まったのである。そこから、また自らの学問を成していかなければならなかった。そ
うした時に再び師である渋沢の言葉が宮本の方向性に影響を与えたのである。敗戦後
の日本の再出発の時は、彼の学問が再出発する時でもあったのである。
このころの宮本の旅は農業指導をすることがその旅の日数の多くを占めていた。昭和
21年にはいって、宮本は新自治協会に入り、「地主を中心とした土地制度、とくに近
世初期の開墾によって大きくなった地主の、村内における有機的な結びつきを調査」
している(『宮本常一著作集1 民俗学への道』)。この旅には、渋沢も関心を示し
て昭和21年から22年にかけて、宮本に同道していたようである。戦後になってから
は、渋沢からの援助がなくなったので旅費は、さまざまなところで講演を行って賄っ
た。こうした講演を頼まれて訪れたところで、時間の許す限り民俗的な聞き取りを
行っていたようである。
当時は、農地解放が進められていた。地主が土地を手放さなければならなかった。そ
のために村内の組織に変化が生じるところもあった。寄生地主と呼ばれている地主や
大地主などの土地は解放されなければならないということは、宮本も認めている。し
かしながら、地主の土地であるとして解放されたものの中には、夫や子が戦争に行っ
たために、人手が足りなくなって土地を人に一時的に預けていたものもあった。そう
した土地までがそのまま取り上げられてしまうということもあった。「人の目のとど
かぬところで弱い者が犠牲にされていっているのである」(『民俗学の旅』)。
宮本によると「村落内の機構として地主は、制度の一部であり、村落自営自治のため
の必然的な一つの社会形態であったともいえる」という。ここでいう地主とは、寄生
地主や不在地主といったような地主ではなく宮本の調査対象であった「近世初期の開
墾によって大きくなった地主」であると思われる。地主という一つの社会形態は「そ
れ自体の中に封建的なるものを多分にもっているが、封建制それ自体は善でも悪でも
ない」。一般に封建的というとマイナスのイメージを抱きやすいが、宮本はそうした
先入観は持たない。確かに封建的なものを悪く利用した人もあったが、またその中に
あって忠実に素直に生きた人も多かった、と説く。それから現代の社会制度について
その目を向けていく。「今日封建性の不合理なのは、封建性が罪悪に満ちたものであ
るためではなくて、新しい経済生産組織のもとにおいてそぐわないことにある。した
がって旧機構を新しくして行くことは、必然的な動きでなければならず、新しく生産
の中心になって行くものが、強大な実力や政治力を持って行くのはまたとうぜんの過
程であるけれども、そのようにして台頭してくる新しい社会の中心になる人たちは・
u栫A同時に責任を持つ文化指導者でもあらねばならぬ」。宮本はさらに説いてゆく。
「このことの完全に行われていない社会においては、たとえそれがどのような社会組
織であろうとも、恐るべき社会悪の生まれてくるものである。私はこのような意味か
ら、村における地主の倫理的位置についても見ようとしたのである」。ここで宮本が
いっている開墾地主は、村人と運命をともにし、村内においては社会保障的な役割も
担っていたようである。例えば『宮本常一著作集11 中世社会の残存』の中に出てく
る時国家などもそうした地主といえるのかもしれない。そして旧社会で村の自営自治
の一端を担っていた地主が解体し村の組織が変化してゆく中で「新しい社会において
は誰が、またいかなる階級が、いかなる組織によって、村の自営自治を完成し、社会
進展に貢献せしめるようにするかははなはだ考慮を要する問題」であるという(『宮
本常一著作集1 民俗学への道』)。
戦後すぐのころは篤農家と呼ばれる人たちが堅実に生産を伸ばし、健全な村づくりに
励んでいた。村村を回った宮本と渋沢は、「日本はまた立ち直れる」と希望を抱いて
いた。しかしながら、官公の政策が強く農業へと反映し始め、篤農家の発言力は次第
に弱くなっていった。それにかわって大学の先生や官僚の発言力が増していった。宮
本はいう。そうした人たちは、農業経営の合理化を説いた。しかし、農民たちは次第
に覇気を失っていったという。宮本はなぜだろうかと考える。宮本の言う一番の大き
な原因とは、農村の組織の官僚化である。官僚組織は個人で責任を負うことはなく、
責任はその組織が負う。そうした事によって、指導が途切れ途切れになってしまう事
を、宮本は『宮本常一著作集2 日本の中央と地方』のなかで指摘している。宮本の
戦後の農政に対する批判は、前述した本である『宮本常一著作集2 日本の中央と地
方』や『宮本常一著作集12 村の崩壊」』などにおいて見ることができる。農村に
あってその近代化を説いた篤農家という流れがあったのだが、その流れがたたれて
行った。逆に政府の発言が強まってゆく。そのような時代の中にあっ・u桙ト宮本は
農村への提言を重ねていったように思う。地主という村内の旧社会形態が解体した後
に現れてきたのは官僚組織であった、といえるかもしれない。
政府の発言力が強まっていく過程とは、村の共同体破壊の過程の一端であったようで
ある。「その第一の契機となったものが農地改革であった」と宮本は書いている。宮
本によれば、村共同体とは「もともと力なき者をできるだけ落伍させないために維持
させて来たもの」だという。この部分に関しては村の中に存在していた頼母子講や無
尽講など、個人のレベルであれば、宮本の父親などを思いおこせばよいのだと思う。
そうした共同体に「土地をもつものはブルジョワであり、小作人はプロレタリアート
であると規定する階級闘争論」が持ち込まれると、戦争中に人手が足りずそのため他
に預けていて、そのまま取り上げられたというような「小地主をも悪人あつかい」さ
れるようになった。そうしたことは、「村の中へ大きな緊張関係を持ちこむととも
に、小土地所有者の間に異常なまでの対立をうえつけた」という。そうした「対立感
は、共同体的な紐帯をたちきっていき、一人一人がそれぞれの立場で物を考えるよう
に」なる。さらに村共同体の中に様々な職業を持つ人が現れてくる中で「地理的な同
業者としての村共同体の質」は大きく変化したと宮本は説いている(以上『宮本常一
・u梺・・W2 日本の中央と地方』)。こうして共同体の変質にともなう紐帯が切れ
ていってしまうのであるが、後年宮本は、共同体の紐帯に変わって連帯感というもの
で人々を再びつなぐ道を模索することになる。
このように農地解放をきっかけとして、宮本の農村への提言までを見てきた。そうし
た中で宮本の学問にも変化が現れてくる。良き資料発掘者から「古き伝承がいかに展
開せられつつあるかについても考えてみ、それを現実について見ようとする」ように
なってくる。敗戦と農地解放という「大きい変革にあって、われわれは移り行くもの
の姿と、移り方についても見、かつ記録しておく必要」があり、過去を認識すること
から「現在への必然性を発見」し、「未来への予想」をも可能なものにしたいと宮本
は著書の中で述べているのである(『宮本常一著作集1 民俗学への道』)。
こうした地主制度へと目をむけた旅で「土地所有関係が村落構造と深い関連を持って
いること」が確かめられ、「耕地は私有が多いが、山村は共有が多く、それを明治30
年以降に分割した例」を多数発見し、そうしたことのなかに村の性格が現れているこ
とを確かめたという(『宮本常一著作集1 民俗学への道』)。この戦後の地主調査
の報告書であると思われるのが著作集の32と33に収められている「村の旧家と村落組
織(1)(2)」である。後年の人の定住の仕方を探っていく学問の萌芽がここにもう
現れてきているように思う。戦前までの、例えば「周防大島を中心としたる海の生活
誌」や「民間暦」といった学問の風とは異なってきているのである。しかしながら、
まだこの時期は、それまでのようにその土地の民俗を分類整理して発表している部分
もある。過渡期であると考えてこの本を見て見ると大変興味深く思われるのである。
それまでのような民俗採集が減ったのは、宮本の心境の変化もあったようである。
「百姓たちと生活をともにし、その話題の中からその人たちの生活を動かしているも
のを見つけてゆこうとすると、項目や語彙を中心にして民俗を採集するようなことは
できにくくなる」(『民俗学の旅』)。民俗は生活から切り離されて存在しているの
ではなく、生活の中にある。そうしたものは、人々と接する中で感得されていくもの
であるということを宮本は説いているように思われる。そうすると「学者たちのおこ
なう調査とはおのずから異なる方法をとらざるを得なくなる。そして一方では百姓た
ちの代弁者であろうとし、他方では百姓たちのことばに耳をかたむけざるを得なくな
る」という。なぜ、宮本は代弁者たらんとしたのか、それは前述したような背景が
あったからだと私は考えている。農地解放という大きな変革がおこなわれる中で、多
くの小農の声が消えてゆき、犠牲を強いられている。そうした中で宮本は、なぜ日本
に小農経営が成立したのか、また小農経営は中農、大農経営になりうるのかを考えな
ければならないと言う。そうした事を考えるには、土地に対する感覚や慣習、経・u
梔cの技術を理解することから手をつけていかなければならないという。農地解放時
の問題意識から、小農経営の成立という歴史的側面と農業経営の発展可能性を模索す
る側面が生じたのである。ここに現実を見据えつつ、過去を探り、そこから未来を見
通そうという宮本の学問の時間論とでもいうべきものが見られるように思う。そうし
た過去を探るための方法であったのが、人々の定着の仕方を調べることであったので
はないかと思われる。このように考えてくると宮本の学問は、現実の問題意識と密接
に結びついているようである。
昭和24年には、水産資料整備委員会の調査委員となって主として瀬戸内海を担当する
ことになった。この水産資料整備委員会発足のいきさつは『民俗学への道』、『民俗
学の旅』に書かれている。
この古文書調査の旅で、古文書の裏には、いろいろないきさつがあることを知ったと
いう。それは、聞き取りによって古文書の事実を確かめてくるとわかってくるもので
あった。多くの島々を歩いてゆく中で海の上での権利、漁法と生産領域の結びつきに
よるその社会の形成過程などに興味を持つようになったという。「調査にあたっては
何を最初の手がかりにするかということによって、その内容はかなりかわって来るも
のである。漁業証権書に目をつけたことから、私は後に山村の調査についても土地所
有関係と、樹種を中心にしてみてゆくようになった」(『宮本常一著作集1 民俗学
への道』)。
宮本は、島にはそれぞれの生き方があり、島々の生活誌をまとめる必要性を感じたと
いう。宮本によると「海岸に定住するようになると塩を焼き畑を拓き、農業をはじめ
る。陸から島に来て土地を拓いた人びとの畑にはきまった形のあるものは少ないが、
海から陸上がりして畑を拓いた場合には土地を平等分割して拓いた例が少なくない」
という。そうしたことが村の性格を決定するのだという。そのようなことから宮本
は、「民俗誌よりも生活誌としてまとめることが適切である」と思ったそうである。
海村の生活は、技術が決定することが多く、海村や島の性格を明らかにするためには
「生態学的な方法」が必要になるという。ところで、宮本は生態学的な方法の必要性
を説いているが、どこで彼はそうした方法を学んだのであろうか。定着の仕方からそ
の地域の性格を明らかにしていくことが彼の学問であったと思うが、その手段のひと
つとして生態学的な方法が用いられているということは興味深いことだと思う。どこ
からその生態学的手法を学んだのだろうか。考えてみるべき問題があるかもしれな
い。
さて、こうした島々を調査して宮本は、「漁村の調査は従来の方法からはかなり違っ
た見方をしないと、生きるということの本質にせまることができなくなるのではない
かと思うようになってきた」という(以上『民俗学の旅』)。
昭和25年には八学会連合によって対馬の総合調査が行われることになり、宮本は渋沢
の助手として民族学班に属した。ここで、浦々の漁業文書を調べ、それに基づき聞き
取りを行っている。また旧家の古文書もしらべている。その古文書をみてみると、旧
家の多くは、中世から宮本も訪れたときまでの間ずっと同じ土地を耕しつづけていた
ことがわかったという。対馬には、中世社会がまだ生きていた。対馬での調査は宮本
に大きな収穫をもたらしてくれたという。
同じく昭和25年ごろ、淡路三原町の調査を行っている。この調査で淡路のみの事例と
してではあるが、名田とはどういうものかを知ることができたという。
対馬調査は、昭和26年にも行われた。前年歩かなかったところを意識的に歩いたとい
う。対馬調査の後、渋沢から能登の時国家には門外不出の古文書があり、農地解放ま
で中世的な経営が行われていたから調査するように言われて、能登へと出かけてい
る。このとき宮本は時国家だけでなく能登の各地を歩きたいと思って、いろいろなと
ころを歩いた。帰京後、宮本は渋沢に詳しく能登での調査を報告すると、翌年の9学
会連合の総合調査は能登で行うこととなった。宮本は村落の調査に力を注いだとい
う。能登には対馬と同じように中世的な社会が残存し、そうした「中世社会の残存す
る地方の調査をしてみることは重要なこと」だと考えたという(『民俗学の旅』)。
同じく昭和27年には五島列島へも調査へと出かけた。西海国立公園候補地の調査で
あった。宮本は歴史の方面を担当し、宇久島、小値賀島、中通島、日ノ島、若松島、
福江島を歩いた。この調査の団長は山階芳正氏であった。かれは島嶼社会研究会を作
り、その仲間と離島の研究を行っていたという。宮本は昭和25年の対馬調査の時に山
階氏と知り合い、会の会員になったのだという。
この調査で、松浦一揆に興味を持ち中通島青方に住む青方氏の古文書と平戸の松浦氏
の文書によって中世の松浦一揆の姿を知ることができたという。また、五島に大陸の
文化が影響していることや、大阪湾岸の佐野の漁民たちが、進出していたことも知っ
たという。佐野の漁民について、宮本は深く興味を持っていたようで、対馬にも彼ら
が進出していたことについても研究を行っている。こうした五島や能登などにおける
中世社会についての研究については、『宮本常一著作集11 中世社会の残存』におい
て詳しく見ることができる。
ここまで見てくると、はっきりと戦前と戦後では学問の方向性が違っていることが見
えてくるのではないかと思う。戦後において宮本は、土地所有権、山林所有権、漁業
権の所有がそれぞれの村における構造に深く結びついていることに目をつけている。
そして、その方向からの研究が始まっていることがわかる。そうしたことから民俗誌
よりもむしろ生活誌を重要視するようになったと思われる。例えば戦前に行われた屋
久島の調査についても後年になるとその見方が変わる。宮本は『宮本常一著作集16
屋久島民俗誌』のあとがきの中で、「人間はそれぞれのおかれた状況の中で、自分た
ちにとって未来を信じ、張りのある生活をたてようと努力する」といい、そして「年
老いた人たちがふりかえって過去をなつかしむのはそうした張りのある生活ができた
ことに対して」であるという。そういうことから「一人一人が何に張り合いを感じ、
何に一生懸命になったかをほりおこしていくことが、民俗学の重要な課題の一つでは
ないかと思う」と述べている。そしてまた、「生きた人間の姿をとらえること」だと
もいう。
私はここに宮本の学問の大きな特徴があると思う。「人間の生きる姿」への言及。眼
前にあるものも、今ここにあるというというだけのものではなく、人の生きてきた軌
跡、そういうものが刻まれたものとして見えてくるものだと思う。過去からの蓄積の
連続としての現在そして未来。過去からの蓄積のすべてがそのまま現在として現存
し、また今という時間における蓄積が未来へと現れてくる。現在眼前にあるものと
は、いわば一人一人の人間が生きてきた姿の蓄積と言えるかもしれない。民俗行事を
主とした調査から人が生きてきた、もしくは生きているという事への視点の転換、こ
の転換が戦前と戦後の学問の違いを生んでいる一つの大きな要因であろう。生きると
いうことがよく反映されている文章としては次のものが挙げられるであろう。
むしろ、農耕社会ではなぜ多くの民俗行事を必要としたか、民俗行事の意味は何で
あったかというようなことが重要な問題である。人は生きてゆく上にはまず食わねば
ならぬ。食うためにどれほどの手段がとられているかが検討せられなければならぬ。
食うために必要な採取生産手段、それのにない手、生産の場の確保、生産の確保、そ
ういう面から無字社会を追求することはできないものであろうか。考えて見るとあら
ゆる事が生きること、生きようとする努力につながっていると思うのである。年中行
事のごときも、こまかに見れば生を守り、種を永遠ならしめるための神への祈りの行
事の連続である。住といい衣というも、親族組織、社会組織というもみな生につなが
るものである。しかもそれが牧畜社会とは異なるものが多い(『宮本常一著作集1
民俗学への道』)。
民俗のみならず、あらゆるものが生きるということにつながっている、という自覚。
これこそが人間というものを見てゆくときに欠くことのできない視点であると思う。
このように宮本の学問は、民俗行事を中心とした調査から人を中心とした調査に変
わってきたといっていいと思う。また、こうした人を中心に見てゆくという転換がも
しなければ、後の『忘れられた日本人』はおそらく生まれなかったのではないかと思
う。そういう意味からも『忘れられた日本人』は彼の学問の転換、そして彼自身の人
を中心としてみてゆくという学問スタイルを象徴するものであるように思われる。そ
ういう意味において、この本はその内容のすばらしさによるだけではなく、彼自身の
学問の中においても象徴的な存在たり得るのであろう。
さて、そうした学問スタイルの変化によって宮本は戦前に行った屋久島での調査を振
り返って、「今日よりめぐまれない条件の中で精いっぱい生きている人たちの姿を見
出して、もう少しそういうことに目を向け、「屋久島民俗誌」ではなく、「屋久島生
活誌」にまでほりさげて書くべきだったと思う」と述べている(『宮本常一著作集16
屋久島民俗誌』)。
宮本の学問スタイルの変化について、主な3つの要因をあげることができると思う。
まず1つ目は、渋沢の言葉を聞いて、「学問をするということも、人が人を信頼する
関係をうちたてていくためであり、どのようにすれば安んじて生活していくことがで
きるかを見つけていくためである」と思ったこと。2つ目は、戦災にあって資料をほ
とんど全て失い学問の軌道が変わったこと。最後に3つ目として、農地解放時に弱い
立場にある者までが土地を取り上げられる現実を見、その後の農村における政府の発
言力の強まりを見ることによって現実の問題に大きく目を開かれたことが挙げられる
と思う。戦後の昭和20年代というのは彼にとってはひとつの大きな分岐点であったと
いえる。