重層するガバナンス論)地球研列島プロジェクト最終報告書からの抜粋 #kankyogabanansu #chikyuken #genpatsu RT @tiniasobu
2011/05/28
2010年11月に作成した 文部科学省の管轄の総合地球環境学研究所の列島プロジェ
クトの最終報告(5年間)からの抜粋をしておきます。全文はpdfで添付します。
130人の専門家たちに理解してもらうためには、理科と文科に橋をかける以外に、
理理 文文のちがう分野どうしの言葉の理解が重要ですが、そのためにいかにわかり
やすく語り、わかりやすく書くかというところに努力を傾けてきました。
それでも、原発をめぐる太字のところが瞹昧なのは、スパイスを振りすぎた食べ物
は拒否されるということに配慮した大人の事情です。
4.未来への可能性
安渓
重層する環境ガバナンスの層が上下関係にあると考えるのは適切でない。それぞれ
カバーする地理的な広がりが異なり、それぞれに役割があるのである。そして、国境
を越えて存在する河川や湖の場合に明らかなように、環境を協治していくために必要
なガバナンスの地理的広がりは、人間が恣意的に引いた境界線とは一致しない場合が
多い。このような自然の循環が定めている境界にそって生きることを、bioregionali
sm と呼ぶが、屋久島の詩人・山尾三省は、これを適切にも「流域の思想」と訳した
(スナイダー・山尾、一九九八)。
環境ガバナンスに注目する理由はもうひとつある。地域の資源あるいは地球環境の
「賢明な利用(wise use)」とは何かを考えるにあたって、価値判断を伴う賢明・非賢
明を論じだしたら、立場が違うステークホルダー(利害関係者)が合意に達すること
は非常に難しい。それよりも、多様で重層的な環境ガバナンスのあり方とその相互の
関係を分析しながら共存への道がないか考えてみてはどうだろうか。過去の事例につ
いても、「なぜそうしたのか」と動機を過重に評価することや、「結果よければすべ
て良し」といった再現性のない評価をするのではなく、人間からの働きかけと自然の
応答のプロセスとその相互作用をきちんとしたデータによって扱うことができる可能
性がより高いのは、重層する環境ガバナンスに注目することであろう(文一6巻本第
1巻8章から)。
安渓
「する・される」という立場の違いから生ずる、人間を対象とするフィールド科学
にまつわる構造的不平等の問題。これは、研究者のモラルを高める努力だけでは解決
できず、教育と研究者養成のシステムそのものへの見直しをせまる大きな問題である。
ことに、「人と自然のよりよい未来」を誰が設計し誰が実行するのか、という点につ
いて無自覚なまま無責任な提言に足を踏み入れれば、その先にあるのは失敗の歴史へ
のあらたなページの書き加えにすぎないだろう。(だからといって、研究者が発言や
行動を差し控えるべきだという意見を持っているのではない。一例であるが、最
近日本で発刊された地球環境学についての大きな事典の索引に、原子力発電の項目も
放射線の悪影響の項目もないのは、早い段階で改訂を要する重大な欠落のひとつでは
ないかと思っている。)
私は、西表安心米運動にのめり込んだ結果、地域研究者としての矩(のり)をこえ
てしまったのだが、その思い上がりに対して、地域の人から「無理に無理を重ねて家
族を泣かせるような学問が何になるの。よぉく考えてね、よそから持ってきた智恵や
文化で地域が本当に生き延びられるわけがないのだということを」という言葉をもらっ
たことがある。地域を活性化するには「ばか者」「よそ者」「若者」が必要だとはよ
く言われることだが、よそ者としての「活動家」が何らかの影響力を持ちうるとすれ
ば、それは地域の人々に仲間として受け入れられる限りにおいてという限定つきであ
ることを忘れてはならない。