わが師)津野幸人「小さい稲作、大きい稲作 自由貿易下で日米稲作の共存は可能か―― 日本小農の生きる道を探る」
2011/01/29
1/30 pdf修正版に置き換えました。変更か所は 青字で示しています。
わが家の再生紙マルチ稲作と田舎暮らしの師匠である津野先生からの原稿をいただ
きました。山口県の環境保全型農業への指針として、またTPPの推進に狂奔する政府・
マスコミへの頂門の一針として、今こそ読まれなければならない重要な論文だとおも
います。
全文は添付のpdfファイルによっていただくとして、
緒言と結語部分だけをここにはりつけておきます。
鳥取大学名誉教授 津野幸人
小さい稲作、大きい稲作-自由貿易下で日米稲作の共存は可能か-*
日本小農の生きる道を探る
緒言
最近の三年間(1996~1999)にわたってアメリカ・アーカンソウ州で日本品種コシ
ヒカリを栽培する農家に住み込み、生産の実態をつぶさに体験してきた。また、これ
とは別にカリフォルニア州の日本品種稲作にも関係する機会をもった。北緯35度線以
南で水資源の豊かなミシシッピー河および、その支流であるアーカンソウ河流域では、
地下水利用の設備さえ整えれば、現在の畑地の多くで水稲栽培が可能である。緩やか
な勾配をもつ畑地を水田に転換するには、一圃場区画内に5~10cmの高低差を保つよ
うに等高線を引き、その上に畦(levee)を作る。そして、最高部の区画にポンプ灌
漑をして、逐次隣接する低位置の水田区画に水を流下させればよい。このような、
アメリカでのジャポニカ種水稲の生産は、稲作地帯でも比較的気温の低い北緯35度線
(京都、静岡)を中心に分布しているので、日長時間と気温の面からみて「コシヒカ
リ」や「あきたこまち」の日本品種は問題なく栽培でき、さらに登熟期の日照に恵ま
れているので、品質、食味共に優れている。日本への輸出拡大が段階的に可能となれ
ば、現在の中・長粒種水稲(インディカ型)から日本品種(ジャポニカ型)栽培へと切
り替えることはさして困難ではないと考えられる。 一方、四国・中国地方の小さ
い規模の稲作の改善に長年にわたって取り組んできた私は、規模拡大を目指す農政の
嵐の中で、可能なかぎりの機会をとらえて小農擁護のための提言を行なってきた。こ
の延長線上で、小さい稲作(日本)と大きい稲作(米国)との自由競争を巡る諸問題
を論議してみたい。なお、ここで取り上げるアメリカの稲作は、将来わが国と熾烈な
競争が予測されるところのジャポニカ系品種(日本品種)の生産であることを初めにお
断りしておきたい。また、論点をはっきりと御理解いただくために、農業をとらえる
基本的な視座をここに記しておく。
歴史的にみて、現在ほど人間の精神文化と物質文明が厳しく対立している時代はあ
るまい。かつては美徳とされた精神の高尚さ、あるいは感性から絶対知に至る精神の
発展(ヘーゲル)などは教養の枠外におかれ、これを口にする人は極めて稀な時代で
ある。物質文明の高度化すなわち経済発展が促す消費拡大は、資源の浪費によって人
間の生存環境の破壊に繋がることを頭では予測しつつも、いま為すべきことの実践、
つまり「欲望の抑制」に踏み切れないで、徒手して閉塞状態を嘆いているのが昨今の
世相ではあるまいか。 人間の創った文明が人間を疎外するという矛盾は、やがて新
たな文明の発見という形で止揚されなければならない。閉塞された状態からの最良の
脱出方法は、聡明な“fundamentalism(根本主義・原理主義)”への回帰であろう。
ずばり言えば、人間が根源的に精神の悦楽を覚えるところの生き甲斐、倫理の実践、
万物との共生、こうしたものに高い評価を与え、それを実践する文明が人類の未来に
期待されるのである。 約一万年の歴史をもち、そこに固有のエートスを培ってき
た生業形態としての小さい農業は、いまなお未来文明への貢献に大きな役割を担って
いる。
農業においても、小さい農業を大きい農業が食い尽くすという弱肉強食の資本の論
理から一定の距離を保ち、この生業が新たな文明の構築にどれほど貢献できるか、と
いった側面からの探求が必要である。また個々の農業技術においても、生産性の向上
はさることながら人間の生き甲斐の確保と環境保全に貢献できるものが期待される。
結論
三十カ国余りの世界各地の農業調査を行なってきたが、わが国ほど農薬のために生
物が農村地帯から姿を消した国を知らない。世界でも稀に見る美しい風景を誇った日
本が、経済開発のために醜い汚染列島に変貌したことに疑問を投げ掛けるオギュスタ
ン・ベルグは、自然/文化の交替(風景の構成・筆者注)は現実の風土性mediance(
仏)のなかで通態的trajectif(仏)に現われるものであるとして、その中心課題は、
“自然をその固有の領域、すなわち自然性において超越しようとする人間の(通態的、
かつ歴史を通じて築かれた)意志、換言すれば、自然を創造しようとする意志。”だ
と指摘する(「風土の日本」篠田勝英訳、ちくま学芸文庫、p 248)。これはなにも
彼の独創的な意見ではなく、すでに私も伝統農業において自然を改造する人間の意志
は、自然の営為の代行として表現されている(表-1)ことを拙著(「小さい農業」
農文協刊)で述べた。ただ彼の著書に注目するのは、日本の学者・文化人の感覚的な
環境決定論を、冷徹な目で以てことごとく批判した上で、「自然は文化に還元できな
いのだが、それでも自然は文化を灌慨し続ける。-中略-合理的な唯一の方法、それ
は表象の空間構成的な秩序をたえず養い育て、まさにそのことを通じてますます意識
的に、その秩序の裂け目を明確にすることである。裂け目を塞いではならない。そこ
から現実が現われるからだ。」(同書p373)、という主張である。 我々は、現代農
業がもたらす環境破壊から目を背けてはならない。あくまでもこれを見据え、秩序の
裂け目を拡大して意識すると同時に、再び好ましい秩序を創造していかなければなら
ないのである。一時として農の営みを中止するわけにはいかない。農を営む中で環境
を修復する道しか選択の余地がないのである。ここにおいて有機農業が輝いてくるの
だ。 農業労働は、自然に制約されるがゆえに外なる自然と内なる自然(精神)を開
示する特質を持つ。換言すれば、労働が自らを高めるところの数少ない職業である。
それは芸術家の制作活動に似ているといえよう。この働きで以て安全な食品を作り、
同時に環境を守ることができるのだ。こうした行為が輝きをもつ時代はすぐそこにき
ている。が、これは大地を耕す者の、精神の発展なしには実現できない。それをヘー
ゲルのいう世界精神の目覚めに模してもよい。すなわち、漫然とした感性は、主観的
精神から客観的(社会的)精神へ、さらに絶対的精神(宗教)へと進み、ついには絶
対的な知(神の領域)に到達するのである。この発展するべき世界精神は、常にわれ
われの内にあって眠っているが、労働によって徐々に姿をあらわすという。小さい農
業は、このような労働を可能とするのだ。 労働を通して宗教的境地にいたる過程を
明らかに指摘し、それをわれわれに示してくれたのは鈴木大拙師だと思う。その著書
「日本的霊性」(岩波文庫)から要点を拾うと次のとおりである。「精神と物質との
奥に、いま一つ何か(霊性、筆者注)を見なければならぬのである。p16」、「天は
遠い。地は近い。大地はどうしても母である。愛の大地である。これほど具体的なも
のはない。宗教は実にこの具体的なものからでないと発生しない。霊性の奥の院は、
実に大地の座にある。p43」、「鍬の数、念仏の数で業障をどうこうしよう、こうし
ようというのではない、振り上げる一鍬、振り下ろす一鍬が絶対である。弥陀の本願
そのものに通じていくのである、否、本願そのものである。p96」、「鍬をもたず大
地に寝起きせぬ人たちは、----大地を具体的に認得することができぬ。p131」、「大
地に親しむとは大地の苦しみを嘗めることである。ただ鍬の上げ下げでは、大地はそ
の秘密を打ち明けてはくれぬ。大地は言挙げせぬが、それに働きかける人が、その誠
を尽くし、私心を離れて、みずからも大地となることができると、大地はその人を己
れがふところに抱き上げてくれる。p 131」これほど農耕労働のもつ本質を言いあて
た言葉はないと思うので、あえて此所に引用させていただいた。
畢竟すれば、人すべて大地と関わりを持ち、それを耕さねばならぬのである。
あとがき
冒頭に表記したとおり本小論は1999年に書かれた。アメリカ稲作と三年間付き合っ
たときの感想をよりどころに、日本農業の未来を危惧して書いたものであった。アメ
リカ稲作とはその後さらに四年間延長して関係を持った。また、その間には、ベトナ
ム、中国・黒龍江省での日本品種水稲栽培にも接することができた。この経験から気
付いたのであるが、南北に伸びた日本列島から適当なジャポニカ品種(短粒で飯に粘
り気が強い)を選べば、現在、世界的に主流を占めるインディカ型水稲(長粒で飯に
粘り気が少ない)の分布地域でも広範囲に栽培が可能であるということである。かっ
て台湾で日本品種を栽培したときには、苗代での不時出穂に悩まされたが、現在の稚
苗移植あるいは直播であれば、不時出穂の問題は解消されている。海外産の日本品種
の米が現在の米価で販売できるならば、低コストで生産されたアメリカ米、賃金(Wa
ge)の安さを武器とした中国米やベトナム米が国産米を市場から駆逐するだろう。
一方ではFAO(国連食糧農業機構)は、2010年12月の世界の食糧価格指数が214・
7と史上最高値をつけたと発表した。これは食糧価格危機のピークであった2008年6
月の213・5を上回っている。この価格指数は穀物、乳製品など主要食料55品目の
02~04年の平均値を100としたものであるから、10年足らずで食料品の輸出価格が
二倍以上高騰したのだ。ロシヤ小麦の輸出規制が国際小麦輸出市場価格を引き上げた
記憶は生々しい。自国の食料が危うくなれば、貿易協定などを無視して輸出を禁止す
るルール違反をロシヤは犯したのである。さらに、アメリカも大豆が不作であったと
きには、同様な動きを示したこともある。戦争のためだけに核武装があるのではない。
核兵器は、経済行為における国際ルール違反を強行する後ろ盾となっているのである。
この現実は、「わが国でも核武装すべし」との論調を後押ししているように思われる
が、これだけははっきりいっておきたい。
武器で食糧を生産することは絶対にできない。自国の国土を大切にして、そこから
食べ物を生産するのがまっとうな道である。わが国土は、地下資源こそ乏しいが起伏
に富んだ地形は、多様な風土と食糧生産に必要な面積、そして十分な降水を恵んでく
ださっているのである。国土のあらゆる起伏を利用して、皆で小さい農業をやろう。