研究のモラル)フィールドでの「濃いかかわり」とその落とし穴・手直し版
2006/04/23
『文化人類学』70(4):、2006年3月発行に掲載された報告「研究ノート」です。
題名
フィールドでの「濃いかかわり」とその落とし穴――西表島での経験から
キ-ワ-ド、
西表島 取材コード 調査地被害 無農薬米の産直 話者が筆をとる
目次
Ⅰ はじめに
Ⅱ 「濃いかかわり」と落とし穴の事例集
Ⅲ まとめ――種をまくことは誰にもできる
Ⅰ はじめに
君子の交わりは水のように淡いというのだが、地域研究をしているとさまざま
な「濃いかかわり」を余儀なくされる場面がある。その時、地域研究者として何
を選択するかは、ひとりひとりにまかされているのだが、その選択の結果、予期
せぬ状況に陥ることもある。とくに、個人としての誠意だけでは解決できない構
造的な問題にかかわる場合には充分注意しなければ、思わぬ落とし穴に落ちるこ
とになる。私の場合にはなぜか深入りをしてしまう傾向があるので、この報告は
その結果私が陥った苦境とその脱出の手だてについての実況レポートである。
地域研究が地域研究であるためには、学問と地域の双方への正直さが必要だが、
そのバランスは、私においてはともすると「地域への愛」の方へとめどなく崩れ
がちであった。その結果が大きな破局にいたらなかったのは、いつもブレーキ役
を引き受けてくれる妻・安渓貴子のおかげである。
私が、妻とともに南島でのフィールドワークを始めてから31年、アフリカに通
うようになって27年目だが、その間に経験した、私の「地域への深入り」の場面
から、「深入りのきっかけ」や「地元民でもないのに地元の人々の代弁をするは
めになった」、その時何がおこるか、さらに「地域での運動の旗ふり」のような
役回りになったら、という場面を紹介してみたい。それぞれのエピソードは、教
室での私の講義の一場面の再現という形で語ってみよう。
フィールドワークに付随した人間関係の深まりに伴って起こってくる様々な状
況に、どのように応えあるいは応えないのが、研究者として、また人間として望
ましいのだろうか。この問いに「人間としての信義をつらぬくこと」といった一
般論的な答えはありうるが、それは実際の現場ではほとんど役に立たない。この
問いをより多くの人の共通の関心事とするための手法のひとつとして、この報告
では文化をめぐる地域研究の現場で、研究のテーマにかかわらず起こりうること
を例示したものである。
研究者の卵がみんな地域研究の現場で「濃いかかわり」をめざせば、地域にと
っては大きな迷惑となる。だから地域研究を志す人たちが、フィールドにおける
地域とのかかわりの落とし穴について思考実験的に疑似体験できるような教育プ
ログラムが必要なのだと私は考える。具体的には、長く地域研究に係わっている
者の責任として、地域との「濃いかかわり」が生みだすものについての、めいめ
いの恥ずかしい失敗談を含めて、なるべく正直に後進に語り、その記録を可能な
範囲で残しておくことに意味があると考えている。
自分が印象的に語ることができるトピックを選んだ結果、語りのこしたことは
多く、他の方々の失敗談ないしはフィールドでの幻滅経験への目配りもできてい
ないが、このような語りへの呼び水として、ささやかな試みを提示してみたい。
なお、同じ語り口によるアフリカ編も構想している。そこでは、村で養子になる
経験や、最近のエコツーリズムへの参加などについても語りたい。
Ⅱ 「濃いかかわり」と落とし穴の事例集
1.短気は損気?――フィールドワークに「正解」はあるか
みなさん、こんにちは。今日か5回の予定で、「文化人類学入門――フィール
ドワークの光と影」というタイトルで、講義をさせていただきます。眠くなった
ら、いつでもオカリナを吹きますのでよろしく。
さて、イリオモテヤマネコで有名な西表島に通い始めた1974年ころ、私は、ニ
ホンザルやチンパンジー社会の調査などで著名だった京都大学の伊谷純一郎先生
の指導で島の南西部の崎山半島の廃村調査をしていました[安渓 1977]。廃村
から戻った私をいつも居候させて下さったのは伊谷先生に紹介された石垣金星さ
んです。彼は、島興し運動家で、家にはいつも仕事のないUターン青年たちがご
ろごろしていました。いっしょに居候しながら、そんな若者達に投げかけられた
きびしい言葉については、資料を見てください[安渓 1992c]。
さて、ある晩のこと金星さんに伴われて近くの家にお酒を飲みに行きました。
石垣島の画家で民俗研究家の石垣博孝さんもたままたご一緒でした。しばらく飲
んだところに、近所のおじさんがやってきたんです。すでにかなり酔っておられ
たと思います。
ところが、そのおじさんが、いきなり私に向かってこう決めつけてくるんです。
「おまえは、廃村調査とか偉そうなことを言うておるけれども、墓を荒らして骨
董品で一儲けをもくろんでいるか、それともそういう連中の手引きでもしている
んだろう。島の連中はだませても、俺の目はごまかせんぞ!」
フィールドワークで出会う問題には――もちろん人生にも――「正解」はあり
ませんが、あなたが私の立場だったらいったいどう答えますか。「一応先生に電
話で助言を求めて……」というようなゆとりはありません。ハイ、どなたでも。
――(学生)「何のことでしょうか」ととぼけて見せます。
――「そのようなことはまったくありません。私がやっているのは、純粋に学
問的な勉強なんです」と反論します。
ありがとう。そんなふうに答えられればよかったんですけれど、私もすでにか
なり酔っていて、とっても短気な23歳の若者だったんです。僕は、やおら立ち上
がってそのおじさんを指さしながら、のども破れるほどの大声で、
「あやまれーっ!!」と決めました。石垣金星さんから、墓荒らしの横行につ
いてはさんざんきかされていて、僕自身とっても腹が立っていたのに、その仲間
かと言われたからです。
そうしたら、おじさんは、そこにあったビールのあき瓶をつかんで立ち上がり
ました。「なに?俺にあやまれだと!?」と僕の頭をたたき割る体制に入られま
した。さて、みなさんなら、ここでどうしますか。真剣勝負です。ビール瓶がも
うあなたの頭の所まできていると思って……。
――逃げます。
――さっと、おじさんの瓶を取りあげます!
なるほど。僕にそれだけの運動神経があればよかったですね。フィールドワー
クに限らず、命の危険を感じたら、できるだけ素早く逃げるのが正解と思います。
でも、僕はその場にへなへなと座り込んでしまった。たぶん腰が抜けたんですよ。
そして「す、少なくとも取り消してください」と急にトーンが下がってお願い口
調です。
しかし、おじさんは「許さん!」といって、なおも振り上げたビール瓶をおろ
しません。危うし僕の頭!
その時、家主が太い声で「帰れ!」とおじさんに言ってくれました。おじさん
は、ビール瓶から手を離すと「覚えてろ!」と凄んで帰っていかれました。たぶ
ん、明かりのついている次の家を見つけてそこに上がり込み、お酒をもう1杯飲
まれたのだろうと思います。
おじさんが出て行ったあと、両側の二人の石垣さんから、「軽率!」「けんか
は相手を見て売れよ」と、僕は諭されました。いつもはいい人だけれど、お酒を
飲むと手がつけられないおじさんで、村で唯一彼に対して押さえがきく人の家で
お酒を飲んでいたので命拾いしたというのです。家主さんは、「いや、元気があ
ってええよ」ととりなしてくださったのですが、それを聞いてぞおっとしました
ね。あの時頭をたたき割られていたら、たぶん僕はここでこんな話をしていない。
さあ、そうなると、あのおじさんに会うのが怖いじゃないですか?なるべくお
じさんの家のある道を通らないようにして、その時の西表滞在は無事終わりまし
た。でも、修士研究は2年間。数カ月後、また島にやってきました。
一本道を歩いているときに、向こうから例のおじさんが歩いてくるんです。逃
げるわけにもいかないので、あいまいな笑顔を浮かべながら「こんにちはー」と
言いました。すると、彼はすうっと近寄ってきて、僕の耳元でこうささやくんで
すよ。「おい、俺の家に今晩酒呑みに来い。……俺、お前好きだからよ。」
さあ、どうしましょう。お酒を飲むと手がつけられないという定評のあるおじ
さんに、たった一人で招待されてしまいました。この手の誘いに乗ることは、女
子学生にはけっして勧めませんが、男子学生だったとしたら、という条件で考え
てください。
――(学生)「体調が悪いので、今日は無理です」と答えます。
そうですね。良い考えです。でも、会うたびに「良くなったか」と聞かれます
よね。いつまでも逃げ続けることはむずかしそうです。
――私なら、飲みに行きます。
はい。正解はわかりませんが、とにかく僕は、お店で泡盛の1升瓶を買って、
それを担いで夕方一人で遊びに行きました。そうしたらおじさんが自分で取って
きた魚の刺身が切ってあって、飲み始めました。アルコール度数30度の泡盛1升
を空にした二人は、いつものおじさんの行動パターンですが、まだ起きている家
々を次々に襲って酒のはしごです。明け方近く、ふと気づくと僕はおじさんと2
人からみあうようにして、見知らぬ家の縁側で眠り込んでいました。おじさんは、
僕をつつき起こしてこう言いましたね。
「おい、アンケイ、明るくなったら恥ずかしいから俺の家に帰って寝よう。」
2人は這うようにして、おじさんの家にもどり、昼過ぎまで爆睡しました。
それ以来、おじさんは、彼自身の言葉に従えば「自信と誇りをもって」他の人
があまり知らないような、西表島のいろいろな古い伝承を教えてくださいました。
とくに崎山半島の地名の研究では、僕にとっての最大の支援者となってくれたの
です。一例をあげますと、ある夕方、僕がサンダル履きで浜辺をぶらぶらしてい
ると、舟のところにこのおじさんがいて、いきなり「乗れ!」というんです。こ
んな時、断ってへそを曲げられると怖いので、どこへ行くとも聞かずに乗りまし
た。そうしたら、なんと、船外機つきのボートで飛ばして片道40分もかかる崎山
村の向こうまで連れて行かれて、ペブ石という海中の大岩の所に着きました。
「お前、鹿川村の連中がペブ石でワニを獲った話は知っとるか?」と言われ、
一応知っていますと答えました[後に安渓・安渓 2003等を発表]。
「話を知っているものはおるけれど、若い者で実際にその現場を踏んだ者がお
らん。現場を踏んでみなければ、本当のことは判らん。登れ登れ。」
と言って、海中に斜めにそそり立つ巨大なペブ石の上まで僕を上がらせてくれ
たのでした。滞在はわずか5分ほど。鹿川廃村まで足を伸ばすことなく、崎山廃
村にもよらず、まっすぐもどったのですが、燃料代の出費だけでも大変だったで
しょう。これは、まずは五体で感じとったものをよく咀嚼して、それを誰にもわ
かるように表現しなさいという、島びととしての貴重な教えだったと思います。
僕が発表した島の生活誌の文章[安渓 1982]に間違いがある、といって家に
呼びつけて、隣村の人と2人がかりでこまかく訂正をしてくださったこともあり
ました。それは、主として僕が網取村の方言と、祖納・干立方言を区別なく書い
ていたことから生じた誤解でしたが、沖縄の人類学調査と酒飲みの大先達であっ
た野口武徳さんが、宮古の池間島で原稿を島の人に見せたところ、真っ赤になる
まで訂正されたという経験[野口 1972]も思い起こされ、僕にとっては大切な
助言となりました。
大学の先輩で、イノシシの生態を研究していたある研究者は、僕より5年以上
前から島に通い、丸1年間島に暮らして、住民の方々ともとても仲良くしておら
れますが「あの人だけは苦手だな」とおっしゃっていました。今日のお話を、あ
のとき、かっとなって怒鳴りつけたから、または村人のひんしゅくを買いながら
もおじさんにつきあって深酒をしたから、うまく仲良くなれたという、技術論だ
と受け取らないでください。僕がフィールドでブレーキが外れて暴走してしまっ
たことは、決して推奨されることではありません。それでも、軽率な自分をさら
けだすことが、西表島の社会では、はからずもより深いつきあいを生むきっかけ
になった可能性もある、ということをお話ししたのです。
今日は、フィールドワークで出くわす問題には模範解答がないということを、西
表島でのはじめての滞在を例にお話しました。それぞれの人が、マリノフスキー
がトロブリアンド島でのフィールドワークで悩んだように、日常的に模索し悩み
ながら、自分の人間としての力のありったけを出して、その場で即決しなければ
ならない場面があるのだ、ということをお伝えするためのお話でした。
もちろん、率直な自分をさらけ出すのがいいとされる社会とそれは悪いこととみ
なされる社会があります。沖縄のようにいっしょに酒を飲むことが当然とされる
社会で、村の中の人間関係を知るためには、フィールドワーク中に調査者が酒を
酌み交わすことは、調査を円滑に進めるための有効な手段でありうるし、また半
ば強制されることも少なくありません。しかし、誰と飲むか、どのように飲むか
ということは、村落社会における影響力の関係のネットワークの中では――これ
を「政治人類学的な権力関係」とか学者はいいますが、中身にはあまり関係あり
ませんから気にしなくてけっこうです――重要な問題で、それを知らずに対応し
ていると、調査者みずからが大きな問題を引き起こしてしまうこともあるという
ことを、僕自信の反省をこめてお伝えしておきたかったのです。
それじゃあ、プリントをお配りした「される側の声――聞き書き・調査地被害」
[安渓 1991a、安渓・安渓 2000にも収録]を次回までに読んで、フィールド
ワークする側の勝手なつごうや思いこみで、現地がどんなに迷惑をしているか、
という生の声に耳を傾けておいてください。お配りするプリントは、基本的に僕
のホームページ(http://ankei.jp)の講義とか研究のページでも公開していま
すから、そちらで見てもらってもかまいません。
2.話者が筆をとる――試みの末に
西表島では、廃村調査のあと、古代的な稲作の研究をしてそれなりに評価もさ
れたんですが[安渓 1978]、1978年から80年にかけてアフリカに行く前と、帰
ってからでは、かなり島の方々との人間関係も変わったような気がしました。
僕の妻なんかは、とくに日本の競争社会のストレスの中で、研究成果を人に取
られたりして、やや人間不信に陥っていましたから、心の衣を脱いで深いところ
からくつろがせてくださったアフリカの森の人々とのつきあいのおかげで、「み
んなちがってみんな変」という、文化人類学の一番大事な基本が身につきました。
人間って捨てたものじゃないし、環境を破壊していくしかないと思っていた人類
にも希望があると思える、前向き人間になって帰ってきたんです。つまり、自分
の敷居が低くなったことで、島でもより深く受け入れていただけるようになった
のかもしれません。
廃村の論文を書くためにいろいろとお世話になった方々のなかに、西表島の廃
村の網取村のことを忘れられないという山田武男さんがおられました。アフリカ
に行く前に、大学ノートをお渡しして、行事の歌でも思い出される範囲で書いて
みられたらどうでしょうか、とお勧めしたのですが、2年ぶりに石垣島を訪ねて
みたら、すっかり書き留めてあり、ご自分がわからない歌については、女性たち
を集めて録音テープに収録までなさっていました。そんな経過から、廃村の記録
をまとめるお手伝いをすることになったのです。
そうして生まれたのが、山田武男著『わが故郷(シマ)アントゥリ』[山田
1986]です。その本ができるまでには、ともに目次を考えたり、古い原稿に朱を
入れたり、図を書いたりしながら産婆役をお引き受けしたのですが、僕たちにと
っては、内容的に大きなショックがありました。
それまでは、動物学教室の自然人類学研究室での、どちらかといえば理科系の
研究ですから、具体的な物的証拠なしの、ただのお話だけでは論文になりません。
ですから、山田武男さんにもお米の収量はいくらとか、ごく具体的なことを一生
懸命聞いていました。ところが、彼が書いては筆を折り、書きかけてはつまりし
ていた原稿の束を見て、驚きました。網取村の神様の由来について、という記事
が10種類ほども様々なバージョンで書かれていたからです。島びととして、どう
しても記録に残したいことと、外から来る研究者としての僕の興味というのは、
こんなにもずれていたのです。
それから2年以上かかって、編集を手伝い、励まし合いながら進めた本の出版
まぎわに、山田武男さんは急逝されます。その知らせを受けて、無念さに僕は泣
きました。それでも、山田武男さんの形見というか贈り物として、よそものの書
いた論文よりも長い寿命をもつに違いない「話者が筆をとる」という営みが、ひ
とつの可能性として残されたのです。
ひとつの事をすると、次があるものです。山田武男さんの年上の従兄で、さら
に古い廃村の崎山村出身の川平永美さんが、「私の村の記録も出してくれ」とい
って、80の手習いで書かれた原稿の束を持ってこられました。これは、聞き書き
でふくらませて、川平永美述『崎山節のふるさと』[川平 1990]として出版し
ました。
さらに、山田武男さんのお姉さんが85歳のトーカキのお祝いを迎えられるので、
19年のおつきあいの中で聞いてきたお話を、山田雪子述『西表島に生きる――お
ばあちゃんの自然生活誌』というタイトルでまとめました[山田 1992]。でも、
結婚・出産・子育てというこちらのライフステージの変化に合わせて、いろいろ
と話していただいたことを、一冊にまとめるとなると、どうしても前後のつじつ
まが合わないようなところが出てきます。それを短期間に確かめようとすると、
それまでの雑談風にはいかず、つい、尋問調査のようになってしまいます。それ
は、話者であるおばあちゃんにも、編集をする僕たちにもかなり疲れる辛い仕事
でした。
幸い、応援してくださる出版社があって、話者たちには金銭的な負担をかけず、
編集にかかわった僕たちもお金を出さずにこれらの3冊の本を出版にこぎつける
ことができました。流通の関係で沖縄以外では入手が困難でしたが、おとなしい
外見にもかかわらず、実は研究倫理の問題への意欲的な挑戦なのだと高く評価し
てくださる書評もありました[西村 1995]。
また、「研究成果の地元への還元」の可能性を巡る議論の結論の部分で、僕は、
調査する側とされる側が一体となって記録をつくることを通して、この「する側」
「される側」の問題は乗り越えうるのではないか、という期待を述べたこともあ
りました。配布した資料に目を通しておいてください[安渓 1992b]。
しかし、廃村の記録を出している間はあまり目立ちませんでしたが、この路線
には僕が予期していなかった落とし穴があったのです。
1990年に「話者が筆をとる時――住民参加による民族誌作成の実践的研究」と
いうタイトルで文部省の科学研究費という補助金を申請して、西表島の祖納と干
立の2集落の記録を作ろうとしました。このプロジェクトは、略称を話者科研
(わしゃかけん)といいます。つまり、知れば知るほど、よそ者として地域のこ
とを書くことの責任の重さが痛感されるようになり、「わしゃ書けん。島の人が
書いてよ。編集は手伝うから」という気持ちになっていた頃です。
ところが、同じ集落であっても伝承にはさまざまな流れがあり、それらが「み
んな違ってみんな普通」というようには受け入れられないのだ、という事実に直
面するようになります。干立村は、明治中頃に西表島にやってきた弘前藩士・笹
森儀助が、その著作『南島探験』[笹森 1982]の中で、将来廃村になるだろう
と予言した35か村のうち、唯一予言が外れた幸せな例外の村です。その主な秘密
は、外部からの移民を受け入れたことにあったのですが、僕が注目していっしょ
に郷土史を作ろうとした話者は、移民として蔑まれたという過去の過ちを、今日
では自分だけが伝承している「正統な伝承」を記録に残すことで正そうという考
えにもとづいて、原稿を作っておられました。
その筆は、ともすると現在流布している俗流の伝承の批判という形をとります。
ところが、そうした少数派の伝承は、それまであまり知られていませんから、そ
れが軋轢を引き起こすことになったのです。
干立・祖納のシチという大きな祭が、国指定の無形民俗文化財に指定されたの
を受けて、公式の記録を作ることになったとき、編集委員の一人としてチームに
加わった僕は、話者科研プロジェクトの中で編集のためにあずかっていた、少数
派の伝承のコピーをとりあえず参考のために提出しておきました。その中に、祭
の歌の歌詞の訂正にあたる部分があったことから、何が正統かという激しい議論
が巻きおこったのです。
とうとう、僕は、その問題をめぐる公民館の臨時総会に呼び出されて、どちら
の伝承が正しいのかについての意見を求められるはめになったのです。つるし上
げにあった形でしどろもどろの僕は、祭の歌のひとこともないがしろにしない、
という島びとたちの伝承にかける思いの深さに圧倒されどおしでした。結局、一
切の変更を認めず、祭では昨年まで通りに歌い、歌っている通りに記録集を作製
するという方針が確認されて、総会は解散しました。
この経験から、ある地域での伝承をなんらかの形で公開することを外部から応
援する時、その社会にいつもは隠れていた複数の伝承をもつ人々の間の主導権争
いのようなものが、一挙に吹き出すことがある、ということに気づかされました。
つまり、「話者が筆をとる」という一見中立で、無害そうなとりくみも、出版や
インターネットといった公表への機会が万人に平等には得られない現状では、外
部の援助者につながることを通した特権獲得へ向けた権力闘争といった様相を呈
することがある、という教訓を得たのでした。
これは、言い残したことですが、僕がある聞き書きを作った結果、非常に気を
つけていたにもかかわらず、プライバシーや著作権がからんで、某有名作家との
10年を越える死闘を繰り広げることになりました。その経緯についての資料をイ
ンターネットの僕のホームページの「研究」のページに載せています。暇をみて
読んで面白いと思ったら小レポートを書いてみてください[インターネットが見
られない人は、安渓 2002を参照]。
3.ヤマネコ印西表安心米の冒険
今日は、僕が「学者」というか研究者をやめて、西表島の無農薬米の商売のボ
ランティア営業部長をするはめになった時の話です。
僕は、国際文化会館の奨学金「新渡戸フェローシップ」をいただいて、1986年
から88年にかけて1年半ほど、家族といっしょにパリに暮らしていました。研究
と交流の毎日で、たいへん充実していたのですが、思い立って西表島の石垣金星
さんをパリに招きました。
久しぶりに金星さんと会って話してみると、西表島では「本土並み稲作」の徹
底と称して、カメムシ防除のための農薬散布が強制され、人もヤマネコも大変な
ことになるのではないか、という心配[安渓 1986]があたって、人々は出口の
ない農薬農業の泥沼にはまりそうだというのです。これはなんとかしなければな
らないだろう、というので、1988年10月に帰国してすぐの11月末に、西表島で現
地シンポジウムをすることにして準備を開始しました。幸い日本生命財団が助成
金をくれて、実現のはこびとなるのですが、主催は、石垣金星さんが代表の「西
表をほりおこす会」にお願いしたので、金星さんはたいへんに張り切って、地域
の人達を中心に200名を集めて、地元婦人会の協力で踊りやお昼ごはんも出すと
いう一大イベントになりました。
そこで基調講演をした僕は、西表島の稲作の歴史を見ると、それは南の島々に
連なるものであり、大正末から昭和の始めにかけての蓬莱米と言われた水稲内地
種の導入も台湾経由だったことを強調しました。つまり、北から直接もたらされ
る技術、具体的には500キロも離れた沖縄島の名護試験場で試された技術は、西
表島に適合したことがないのではないか、ということを様々な事例を挙げて問い
かけ、無農薬米として産直するならば充分な収入の道が開けるはずだと訴えまし
た[安渓 1989]。その後は、國分直一先生をはじめとする研究者や地域での活
動をされている方々による多角的なお話を通して島の方々への励ましと学びと場
となったのです。
さあ、発言したことには責任が伴いますから、僕は、県民生協という那覇にあ
る組織に手紙を書きました。西表島には、その自然と共存する稲作の長い伝統が
あり、それを生かした無農薬米の生産と産直が可能なこと。県民にそのすばらし
いお米を届けるために、まずは、現地を見てほしいことなど、長いラブレターに
なりました。
生協は容易に腰をあげませんでしたが、僕の書いた手紙がまわりまわって、沖
縄のある経営者の手に入って、その人が興味をもちました。そして西表に現れて、
みなさんのお米は良い値段で全量買い取るから安心して自分たちの精米所を建て
るように、その借金は、お米の支払いの中から10年がかりぐらいで返してもらえ
ばいいから、というような話をしたのだそうです。
純真な島の人達は、すっかりその人の話を信用してりっぱな倉庫を建て、精米
の設備を購入することにしました。ところが、この経営者は、西表島の帰りに、
当時お米の流通を管理していた那覇の食糧事務所にあいさつに行ってこんな演説
をしたというのです。
「こんど、私は商売替えをして、西表島の無農薬米を扱うことにした。沖縄で
は消費量の3日分の米しか生産されていないのに、これだけの数の役人が必要だ
ろうか。あんた達は税金泥棒だよ。」
こんなことを言われたら、誰だって怒ります。「あいつの扱う米については、
絶対に認可しない」と、現場のお役人たちが決心したというのも無理からぬとこ
ろかもしれません。
そんなこととは知らない僕が、翌1989年の7月に西表島を訪ねてみたら、材料
費だけで600万円というりっぱな倉庫がすでにあらまし建っていて、島の西部の
お米の生産量の半分くらいを集める約束もできていました。
新しく始まった特別栽培米の制度の勉強会をしたり、減農薬のための虫見板を
開発した北九州の宇根豊さんを招いたり、さまざまな取り組みも始めました。
ところが、特別栽培米の許可がなかなか下りないのです。その訳はさっき言っ
たことにあったのですが、扱い量が減った農協からの攻撃も当然ありました。例
えば、農協の借金が残っている農機具を没収していくとか、お米の検査所を陸路
で50キロも離れた島の東部に移すといった具合です。
こうして、許可がおりないまま西表島に台風が近づいてきました。もし倉庫が
飛ばされて集めたお米が濡れでもしたら大変なことになります。苦渋の決断で、
米を那覇に送ることにしました。いわゆる自由米、昔風に言えばヤミ米の道です。
船が出るところから農協、役所、食糧事務所の監視つきです。まだ携帯電話のな
いころですから、トランシーバーで「西表島の不正規流通米は、ただいま那覇港
に到着しました。どうぞ」といった具合です。
そうなると、昼間に倉庫から出すことができません。夜を待って引っ張り出し
て、夜のうちに精米をして、無印で売るという苦しい取り組みです。お米商売に
不慣れなさきほどの経営者さんたちの努力にもかかわらず、60トンものお米です、
なかなかさばけません。
那覇の経営者さんに支払いを求めますが、「明日には振り込みます」と言うば
かりで、工面ができないようです。お金は入らないのに、倉庫の材料を納めたい
ろいろな会社からは、支払いの矢の催促がきます。米は出したのに一銭も入らな
い島の人が、青い顔をして「あれ、どうなってるかなあ」と聞きにきます。金星
さんと僕は、笑顔をつくって「すべて順調に行っています。あさってぐらいには
お金は入ると思います」と言い続けるしかありません。胃がきりきりと痛みだし
ますが、どうしようもありません。もうすっかり気分は詐欺師なんですが、逃げ
られません。
そうこうするうちに、アタッシェケースに現金を詰め込んだ人物が西表に現れ
ました。全量引き取ってくれるというのです。那覇の倉庫の扉を開けるように電
話で連絡さえしてくれれば、全国ネットに載せて有利に売ってあげるというので
す。ところが、支払いの条件が「翌月末払いの手形」だというので、持ち逃げを
恐れて僕はあちこち電話をしました。すると、あるお役人が立場を越えて重要な
助言をしてくれました。「自由米の鉄則は、即金ですよ。つまり、トラックに米
を積んだら代金を現金で受け取って、あとは後腐れなしというのがルールです。
手形で払うなんていうのは、自由米業者じゃなくて詐欺師ですよ。そんなものに
引っかからないように、正しいヤミ米道を歩んでください!」この助言のおかげ
で救われたんです。その後しばらくして「正しい」自由米業者と出会って、なん
とかそれなりの値段で買ってもらうことができたのでした。
翌年以降の道を開くために、ひとりの農民のお米2トンほどだけを特別栽培米
として認可してもらうことを目標にして、最後のふんばりを続けました。那覇の
食糧事務所からの、認可を決断するための最後の確認のための電話でのきびしい
質問に、こちらの「よい子」の農民が答えていきます。
「じゃあ、あなたのお米は1粒も不正規流通米として那覇には行っていないん
ですね?」という問いかけに、「よい子」がまじめくさって答えます。
「いやあ、その人達と同じ精米機をつかっていますので、僕の米も2,3粒は混
じって那覇に行っているかもしれないですね……」
電話の周りをとりかこんで固唾をのんで耳をすましていたヤミ米組は、口を押
さえて笑い転げました。
1990年5月の第26回日本民族学会の研究大会で、研究者のモラルについてのシ
ンポジウムをするので、参加して話をしないかという誘いが祖父江孝夫先生から
ありました。「いま私は、西表島のお米の宣伝しかできません」とお断りしよう
としたところ、「いや、それで結構です」ということでした。パネラーとして安
心米物語を映像入りで紹介して、購入をよびかけたところ、それを引き取って、
座長の祖父江先生は「西表安心米は、私もいただいておりますけれども、新潟の
お米と比べてもたいへんにおいしいお米かと存じます」というありがたいコメン
トをしてくださいました。
そのあと、フロアから厳しい質問が出たんです。「地域のためによかれと思っ
てやったことがもしも失敗したら、その場合の研究者の責任というのはどのよう
になりますか」という一般論としての質問でした。
僕は、「ああ、この方は過去に何かこの手の事で痛い目に合われたことがある
のだろうな」と思いました。一般論として答えるならば、地元におまかせして、
研究者は介入じみたことを何もしないのが一番です。でも、僕は、すでに大幅に
介入してしまっていましたし、西表島のお米の宣伝を第一の目的として学会にも
出席したのです。質問するだけの興味を持ってくださるならぜひお米を買って僕
らが責任を果たす応援をして欲しい。そんな思いをこめて以下のように答えまし
た。
「自分が第二のふるさとと思っている地域の危機的な状況を目の当たりにして、
こんな時に自分が師と思う人たちならどのように行動しただろうか――例えば、
伊谷純一郎(タンザニアに国立公園を創る)、川喜田二郎(ネパールの村おこし)
、宮本常一(離島振興法の策定)、國分直一(綾羅木郷遺跡を守る)のような人
達とその方々のフィールドでの取り組みを思い浮かべましたが、川喜田先生が真
ん前でかぶりつきで聞いておられたので、名前は出しませんでした――そのこと
をよくよく考えた上で決断して、幸い家族にも応援してもらって取り組んでいま
す。去年はご心配のように、ひょっとしたら首を吊るしかないかもしれないとい
う綱渡りの状況もありましたが、今は、全国の皆様に食べていただけるところに
こぎつけました。ですから、S先生もどうぞご安心の上、5キロでも10キロでも
お申し込みくださいませ……」、
宣伝費がない安心米のために、一見学術的エッセー、実はコマーシャルという
ものをあれこれ書きました。そのひとつを資料としてお目にかけておきます[安
渓 1992a]。何か質問はありませんか。
――(学生)一度西表安心米を食べてみたいのですが。
まあ、ありがとうございます!白米の試食ならお勧めは日本一早い新米の7月
です。玄米の年間契約なら一年中おいしいです。来週申込書をもってきましょう。
電話での問い合わせは、0980-85-6302の那良伊(ならい)さんにお願いします。
今日は、ヤマネコ印西表安心米が、たくさんの消費者や支援者に助けられ、15
年ほどかかってすべての借金を返し終わるまでには、こんな冒険もあった、とい
う物語のさわりの部分でした。
そんな中で、僕は「あんたは、本当は島のために研究してきてたんだねえ」と
いう過分の言葉もいただきましたが、農協の参事からは「西表のガン」という名
誉称号をたまわりました。地域の課題に深入りしすぎて、それまでのなるべくみ
んなと仲良くしてまんべんなく話を聞き出す、という調査スタイルを捨てざるを
得なくなったわけです。
まだ語ることを許されない部分も多いのですが、この西表安心米物語は、小説
として書いて映画化してみたいというのが、僕の野望です。
4.祭りのなかで――取材コードをつくる
こんどは、西表島の祭の記録作りを町から依頼されて、年に6回も島に通って
いた1995年ごろのお話です。記録をとるかたわら、祭のいろいろな場面の裏方を
積極的に引き受けました。妻の貴子は料理づくり、僕は例えば爬竜船のペンキの
塗り直しなどの仕事です。下手だと叱られるのを覚悟でやってみるのですが、こ
れを人類学業界では「参与観察」と呼んでいます。
祭の料理の記録や写真などは、1970年代から取り始めています。また安心米以
来、一部の人からは親戚扱いを受けているので、いろいろなことをまかされるよ
うになってもいます。そうした中で、祭についてまだまだ知らないことも多いは
ずなのに、いろいろな局面で助言を求められたり、裏方をまかされたりする場面
も増えてきます。本番が終わったあとの慰労会に招かれて、そこで「干立村の下
男下女のアンケイさんです」と紹介されました。さすがに、「口は悪いけれど、
心はもっと汚いぞ」と自称する人達ですね。
しかし、それにしても、フィールドワーカーが集めた資料が、地域の行事のお
手本になっていいものでしょうか。この問いかけは、以前からなされているもの
ですけれど[例えば、安渓 1992b]、過疎で伝承者が減っている現状では、い
い悪いを考える以前に、できるだけの協力をするしかないという局面もあると言
わざるをえません。
ところで、有名なお祭ですから、カメラをもった取材陣が次々に訪れます。僕
が船のペンキを塗っているところにきた人たちは、僕のことを村人と思って写真
を撮り、祭についていろいろ尋ねてきます。他のみんなが忙しいようなので、僕
は聞かれるままに答えていました。初歩的な質問が多いので、僕でも充分答えら
れるのですが、調査される側の気分がようやく少しはわかってきたというのが収
穫です。ただ、僕の写真をとっていた写真家には、あとで手紙を書いて僕が村人
ではないことを説明し、写真集に僕の写真を入れることはお断りさせていただき、
了解の返事をもらいました。
西表島には、豊年祭やシチといった何日もかかるような大きな祭りがあります。
無形文化財に指定されたりする中で、しだいに人気が高まり、取材も年々ふえて
きます。ところが、取材のカメラマンの中には自分が良い写真を撮ることしか念
頭にない人もいて、例えば、輪になって踊っているその中に入って写真やビデオ
を撮るということをしても平気な人もいるのです。祭の中で神前の奉納芸を歌い
踊っている地元の人達には、そういう非常識な取材陣をたしなめたりする余裕が
ありませんし、所作がきびしく決まっているなかで、それ以外の動きをすること
も許されていないのです。
しかし、例えば八重山には、関係者以外には公開しない部分を多くもつ祭があ
ります。そんな村では、部外者の立ち入りを禁止または制限する場所への入り口
には、杖をもった監視役が立っています。なんとか、それに近い方法で心ない取
材者をお断りすることはできないものでしょうか。
取材者へのコードというか約束事を作って、それを了解した取材陣だけに取材
を制限することができないかと考えました。祖納と干立の公民館の幹部と話し合
って、僕が原案を作りました。実際には、それぞれの公民館の実情に合わせて若
干手直しされ、祭の前の臨時総会でそれぞれ可決されて実施に移されたのですが、
実施にあたっての監視役を、積極的に引き受けてくれる人もいて、手がたりない
所は僕が地元のふりをして監視役を引き受けました。祈りの時に、取材陣がテレ
ビカメラを膝において、ともに手を合わせる姿は、それまでには見られない新鮮
なものでした。
僕が書いた原案を以下に示しておきます。誓約書をもらう形式にしました。地
元の新聞には、厳しすぎるというコメントが載りましたが、地元にはおおむね好
評でした。
写真・ビデオなどの取材を希望される方へのお願い
西表島のお祭に参加してくださり、まことにありがとうございます。
西表島の祭は、ゆたかな自然への感謝をささげ、さまざまな祈願をこめた芸能
を神々に奉納するために、住民あげて取り組んでいるものです。近年、写真・ビ
デオなどの取材を希望される方が増え、中には祭の進行にさまたげになる取材の
方法をとられる方もないわけではありません。そこで、当公民館では、臨時総会
の決定により、取材は以下の点を了解していただける方だけに限らせていただく
ことになりました。御協力をよろしくお願い申し上げます。
1、撮影許可の腕章と公民館のリボンを!
以下の4点の「お願い」を了解される方は、ご住所・電話番号とお名前を書い
て、当公民館の取材許可の腕章を付けて下さい。また、当公民館のリボンを付け
た方には、折り詰めと飲み物のサービスがございます。こちらの方も、○千円以
上のお志をいただきますよう、お願いを申し上げております。なお、色の違う取
材陣の腕章は、地元のマスコミなど当公民館からの事前の依頼による場合に使用
しています。したがって、腕章のない方が、観光客のスナップ以上の取材をされ
ることがないよう、お互いに気をつけてくださるようにお願い申し上げます。
2、ともに祈りをささげてください
白い着物の女性たちは、神司(かみつかさ)といって、祭の間は神様へ祈願す
る大切な役割を果たしておられます。神司の目の前を横切るなどの失礼のないよ
うに十分気を付けてください。神司たちの祈りの場面の撮影は御遠慮ください。
できれば、ともに手を合せてくださるようにお願いいたします。
3、立ち入り禁止区域を守ってください
あまり接近されますと、気が散って長い練習を重ねた芸能の奉納に専念できま
せん。特に、巻踊りの輪の中に立ち入ったり、芸能のおこなわれている海側にま
わったりなさらないように配慮してください。取材陣どうし互いに邪魔にならな
いようになさってください。詳しくは当日掲示する立ち入り禁止区域を守り、公
民館役員の指示に従ってください。
4、印刷・公表を希望される時は、当公民館あてに事前に知らせてください
あなたが、祭で撮影された映像は、公民館に無断で印刷・公表・放映すること
はできません。必ず事前に文書による許可を求めてください。祭の進行のさまた
げになる取材方法であった場合には、公表を許可することはできません。また、
これはお願いするまでもないことでしょうが、公表された場合には、その成果を
当公民館あてにお送りください。
取材許可腕章No
○○公民館長殿 年 月 日
私は神事としての西表島の祭の趣旨を理解したうえ、
1、取材許可の腕章を付ける、
2、ともに祈りをささげる、
3、立ち入り禁止区域を守る、
4、公表の前に許可を求める、
の条件のもとに、取材することをお約束します。
住所 〒
電話
ファックス
あれば所属
署名
それでは、今日の宿題は、祭の運営が学生ボランティアなしには難しくなって
いることを紹介した「島は誰のもの――ヤマネコの島からの問いかけ」[安渓
1995]という記事を読むことです。毎年のように通っている学生たちが、地元の
人から「来てくれて助かったさあ、でも来年は来んでもいいからね」と言われた
りする衝撃というのがあったりする、と東京で「西表のおまつり人材派遣業」を
している大学教員の竹尾茂樹先生が話しておられました[安渓 2004: 88]。
5.地元民になる道
1990年のアフリカ訪問は、僕にとっては大きなショックでした。民主化熱に取
り憑かれたと後に言われるようになる変化がコンゴ民主共和国に起こるのは、
1992年頃のことですが、すでにその予感は少なくとも首都のキンシャサでは感じ
られました。
実は、僕はアフリカで養子にしてもらったのですが、僕の姉さんが嫁に行った
村の中で一番の元気印だった、たくさんの即興の歌をうたってくれた若嫁さんが、
僕が村を離れた2日後に赤痢(その時は、コレラだとみんな言っていました)で
亡くなってしまうのです。21歳の若さで、2人の子どもを残して。その葬式をし
たい、みんなで集まって何か食べたいから、その費用を援助してくれ、と水辺の
村の村長(姉のお婿さんにあたります)に言われたとき、研究者としての一線を
踏み越えて、村が廃村から立ち直るための援助をあれこれ試みてきた僕は、打ち
のめされました。骨身を惜しまず、気働きがあって、茶目っ気と才気あふれる彼
女がいてくれれば、村はきっと立ち直れるだろうという感触を、僕はひそかに持
っていたからです。そして、流行病をひろげるような葬式にしないために僕に何
ができるのでしょう。森の奥の村でも基本的な保健衛生の状況が悪化しているこ
とは否定できなかったのです。まだ、ルワンダでの虐殺やコンゴ内戦は始まって
いませんでしたが、僕にとっては、地域社会の衝撃的な崩壊の予兆がすでに感じ
られたのです。
僕は、この時の旅の結果を4冊のノートに記していますが、手にとるのがなん
だか苦しくて、これまでに発表したのは若嫁が創作したあてこすり歌についてだ
けです[安渓 1999など]。僕は、フィールドノートの最後のところに書き付け
ています。「これまでは『アフリカは元気です。都会にはいろいろ問題があって
も、少なくともアフリカの田舎は元気ですよ』と自分や学生たちをだまし続けて
きたけれど、世界が丸ごと病気なのに、アフリカの田舎だけが元気なわけがなか
った……」
いま世界中にある環境破壊、貧困や内戦を通した地域の崩壊を引き起こす主な
原因は、あらためて指摘されるまでもなく先進国の側にあります。そして、学生
たちも気づいているように、日本人の暮らしこそは、その元凶のひとつといって
も差し支えないと思われます[安渓 1998]。僕は、「こんなアフリカの田舎の
状況を変えるための最先端の現場は、自分が暮らす日本なんだ。そこで希望を見
つけないかぎり、恥ずかしくてもうアフリカには戻れない」と思いながら後ろ髪
を引かれる思いで飛行機に乗りました。日本への帰路に寄ったパリでも、アフリ
カ研究センターの友人が、「近頃アフリカ研究に対する幻滅みたいなものが広ま
っていて、フランスの田舎研究とかがはやっているのよ」と話してくれました。
それから僕がもう一度アフリカに行ってもいいかな、と思えるようになるまで
に7年、実際に家族とともに戻って、再び「アフリカは元気です」と自信をもっ
て言えるようになるまでに8年の年月がかかりました。子育てのために行かなか
った妻の貴子にとっては、実に18年ぶりでした。その間に何をしていたのかをお
話して、この講義のしめくくりにしたいと思います。それは、土着化症候群とで
もいいましょうか――着土と簡潔にいう人もありますが――それがどんどんエス
カレートしていくという物語です。
まず、小さな畑を作りはじめました。きっかけは、『ポストハーベスト農薬汚
染』というビデオ[学陽書房]を見て、妻がスーパーで何も買えなくなるほど深
いショックを受けたことでした。中国の革命家の孫文の言葉を借りれば「知るは
難く行うは易し」ということです。ほんとうに難しいのは、知ることです。体が
動かないのは、頭でしかわかっていないからです。心から納得すれば自然に行動
にあらわれるはずです。このポストハーベストの問題を自力で解決するには、自
分で納得のいく作物を自給するしかないと気づいたのです。畑を始めるにあたっ
て、家の前の空き地を借りられたのは幸いでした。近所のおばあさまが、鍬のふ
り方から実地に教えてくださいました。1991年春のことでした。
1993年には、鳥取県の大山のふもとの30戸ほどの村で1年間をすごして、初め
ての稲作に挑戦しました。
――(学生)田んぼを作ることを決断された理由は何だったんですか。
実は、西表なんですよ。僕たちが「西表安心米」を応援したのは、西表の人と
自然を守りたいという動機でしたけれど、西表で玄米を食べ始めて、自分もあの
おいしい完全無農薬米を玄米で食べて元気になりたいという強い個人的動機もあ
りました。ところが、注文が殺到したりすると品薄になりますよね。その時に、
西表の生産者から「ウトゥザマリ(親戚)扱い」を受けました。つまり、親戚な
らいろいろ面倒な説明をしないでいいので、うちには米を回さないということに
されたんです。すると、僕は宣伝部長として安心米の宣伝のためにこき使われて
いたわけですけれど、もしその努力がみのって注文がたくさんくると、自分では
安心米が食べられなくなる……。これは援助にともなう構造的な矛盾です。それ
を解消する方法としては、西表安心米の鉄の鎖から自分を解放するしかない、と
気づきました。具体的には、自分が暮らす山口で自分が安心米を作るというのが
そのひとつの方法です。その準備として鳥取の津野幸人さん(当時鳥取大の農学
部長)のところで1年間田舎暮らしの修行をしたわけです。それ以来13年になり
ますが、週末農業だけで家族の食べる完全無農薬・無除草剤の米が自給でき、幸
せなことに日本ではお米を買ったことはありません[安渓・安渓 1997]。
1997年には、山口市の30軒ばかりの山村に土地を求めて県産材の産直で家を建
て、自分の里山の手入れをしながらそこから出てくる木で風呂と暖房をするとい
う暮らしに入りました[安渓編 2004]。
この過程を通して、僕が遅まきながらアフリカの村で気づいた、現在の日本生
活にひそむ病根に向き合うため足下がいちおう定まったと感じました。そもそも、
日本の豊かさは、世界中から毎年8億トンのもの資源を輸入し、それを加工して1
億トン弱の製品として輸出することで培われてきましたが、その結果として行き
所のないゴミと排気ガスを生みだしています[渡部 1995: 70]。このようでな
い、地域の物質循環の中で暮らしがまかなえる暮らしを自分の足下でイメージす
ることができてはじめて、アフリカの問題にも正面から向き合える心の準備がで
きたのです。
そこで、1998年のナイロビでの4か月の暮らしを皮切りに、アフリカに再び通
うようになるのですが、危機に瀕する森での地元主導のエコツーリズムと森林保
全を国を超えた民際交流によって活性化するという課題に向かうことになりまし
た。この報告は僕のホームページに英語で載せていますけれど、詳しくは別の講
義で扱うことにしたいと思います。
Ⅲ まとめ――種をまくことは誰にもできる
以上、長々と語ってきたのは、フィールドワーク初心者だった僕と妻が、さま
ざまな失敗を重ねながらも、地域の人々との息の長いつきあいを重ねる中で、し
だいにその地域の物語の登場人物のひとつになってくる、という経験でした。
その中で、たくさんのものを得ましたが、また失ったものも少なくありません。
誰からも話をきけるという関係を失ったのは、一時的なことでしたが、西表安心
米運動という真剣勝負のあと、老後は別荘気分で西表島に、という僕たちのかつ
ての夢はあとかたなく消えてしまいました。島の人達とそんな淡いつきあいが成
立する余地がなくなってしまったからです。そのほかにも、あたりまえの研究者
であるという評価はとっくになくしました。最近も、西表でのリゾート建設に異
議を申し立てる動きに協力して[馬場・安渓 2004]大きなプロジェクトから外
されました。研究報告をまとめた西表論文集の作製が何年も遅れているのは、そ
れが僕にとって最優先の課題とは思えなくなっていることによっています。
誤解のないように申し上げておきますが、僕は決して「地域との濃いかかわり」
を手放しで勧めるものではありません。「フィールドワークのススメ」というよ
り、どちらかというと黄信号の「トマレ」です。だって、フィールドでの濃いか
かわりは、往々にして生涯をかけたものになります。お互いに相手の人生の物語
の一部になるかもしれないという重い選択なのです。でも、誰しも体はひとつし
かないし、人生は1回きり。とても、それだけの責任がとれない場合があること
をよく自覚して、簡単には「濃いかかわり」の側に踏み切らないぞ、と自分に言
い聞かせておくぐらいでちょうどいいのです。そうやって「学問と地域への正直
さのバランス」をとる努力をしてほしいというのが、これから西表島のような濃
い関わりを余儀なくされる場所でのフィールドワークをめざすかもしれないあな
たへの助言です。その時に、墜落寸前という事態も何度かあった、僕らのあやう
い冒険談のいくつかの場面を思い起こしてもらえれば、と願ってこんなお話をさ
せてもらいました。
よかれと思い、細心の注意を払って聞き書きを発表したことに端を発した、有
名作家による盗作事件に係わって、僕たちがもらった被害者の悲しみの言葉[安
渓 1992c]を書き付けて、自分へのいましめとしたいと思います。
「種をまくことは誰にもできる。大変なのは草取りと収穫。そして一番難しい
のは、耕されて荒れた土をもとに戻すこと」
参照文献
安渓 遊地
1977「八重山群島西表島廃村鹿川の生活復原」伊谷純一郎・原子令三編著
『人類の自然誌』301-375、雄山閣
1978「西表島の稲作、自然・ヒト・イネ――伝統的生業とその変容をめぐっ
て」『季刊人類学』9(3)、27-101
1982「島の暮らし――西表島いまむかし』木崎甲子郎・目崎茂和編著『琉球
の風水土』、126-143、 築地書館
1986「西表島で農薬散布が始まった――人にもヤマネコにも体内蓄積のおそ
れ」『エコノミスト』 9月16日号: 78-83
1989「自然利用の歴史――西表をみなおすために」『地域と文化』53・54合
併号、6-11、ひるぎ社、那覇
1991a「される側の声――聞き書き・調査地被害」『民族学研究』56(3):
320-326
1992a「無農薬米の産直が始った――島を出た若者への手紙」『エコノミス
ト』7月21日号:76-79
1992b「『研究成果の還元』はどこまで可能か」『民族学研究』 57(1): 75-
83
1992c「バカセなら毎年何十人も来るぞ」『新沖縄文学』94: 8-10
1995「島は誰のもの――ヤマネコの島からの問いかけ」『月刊地理』9月号:
43-48、古今書院
1998「踊りながらその場を立ち去ってしまうだろう――コンゴ女性の声への
日本の学生の反応」『ふくたーな』5号、日本学術振興会、ナイロビ。
1999「市場が畑だ――コンゴ漁民の生活」川田順造編『アフリカ入門』新書
館
2002「聞き書きと人権侵害――立松和平対策事務所の10年」『山口県立大学
国際文化学部紀要』8: 69-78
2004「南島の聖域・浦内川と西表島リゾート」『エコソフィア』13:82-89
安渓 遊地編
2004『やまぐちは日本一――山・川・海のことづて』弦書房
安渓 遊地・安渓 貴子
1997「『日曜百姓のまねごと』から――第3種兼業の可能性をめぐって」
『農耕の技術と文化』20号
2000『島からのことづて――琉球弧聞き書きの旅』葦書房、福岡
2003「ワニのいた川――西表島浦内川の昨日・今日・明日(上)」『季刊・
生命の島』64、54-61、上屋久町
川平 永美述、安渓 遊地・安渓 貴子編
1990『崎山節のふるさと――西表島の歌と昔語』1-198、ひるぎ社、那覇
笹森 儀助
1982(1894初版)『南島探験』平凡社
西村 秀三
1995「書評・山田雪子述、安渓 貴子・安渓 遊地編『西表島に生きる――
おばあちゃんの自然生活誌』」『民族学研究』60(1):111
野口 武徳
1972『沖縄池間島民俗誌』未来社
馬場 繁幸・安渓 遊地
2004「地域社会への影響評価を――西表島リゾート建設に対する日本生態学
会の要望書の特色」『保全生態学研究』8: 97-98
山田 武男著、安渓 遊地・安渓 貴子編
1986『わが故郷アントゥリ――西表島網取村の民俗と古謡』1-264、ひるぎ
社、那覇
山田 雪子述、安渓 貴子・安渓 遊地編
1992『西表島に生きる――おばあちゃんの自然生活誌』1-230、ひるぎ社、
那覇
渡部 重行
1995『共生の文化人類学――暮らしのトポスと経験知』学陽書房
(2005年12月21日採択決定)
欧文タイトルと要旨
Pitfalls in Field Surveys: Examples from Iriomote Island, Okinawa
Japan.
ANKEI Yuji
Keywords: Iriomote Island (Okinawa), code of research ethics,
suffering of the researched, commercialization of organic rice, from
narrators to writers
In this paper, I narrate my experience of ethical difficulties during
my three-decade field surveys on Iriomote Island, one of the south-most
islands in Okinawa, Japan. Although the island is famous for its well-
conserved nature such as Iriomote Wildcats and coral reefs, islanders
have suffered from severe capitation tax s (1636-1902), tropical
fever malaria (until 1960’s) and underpopulation after the WWII. When I
first visited the island at the age of 23, some islanders told me that
they were tired of so-called researchers, who came to the islands by
dozens. Since then, they have continued to tell me, ”Researchers go
home! Only those who agree to be our friends are welcome.” Then, the
question was how a researcher can be a friend of islanders, and how he
or she can still continue to conduct field surveys among them. The
episode 1 is the perilous encounter with a drunken islander. He blamed
me of my research on ethno-archaeology. He suspected that I stole
artifacts buried in tombs of abandoned villages. I failed to explain
him what my research was, but angrily demanded some apologies from him.
In reply, he seized a bottle and aimed at my head to strike me down...
Thanks to this quite frank encounter, we became very good friends
afterwards, and he would help me in doing my research on place names of
abandoned villages. The episode 2 deals with my trials to publish
ethnographies in the name of local speakers, not of researchers. Former
inhabitants of abandoned villages prepared manuscripts, and my wife and
I helped to compile them to be published in three volumes of books.
Then, we planned to help an inhabitant of an existing village to do a
similar thing with us. He tried to put some oral traditions of his own
family in a manuscript. This caused misunderstanding and frustration
among other villagers because they regarded that his manuscript
contained something against the authentic versions of songs sang during
their solemn festivals. They gathered a general assembly of the
villagers, and I was summoned to explain them which tradition was more
authentic and right. The episode 3 is a record of endeavors to
establish an agricultural cooperative of organic rice in Iriomote.
Since 1980’s the local government forced the rice cultivators of Okinawa
to begin the use of insecticide in their rice fields. In the 70’s, I
had studied traditional rice cultivation in this Island, and revealed
that Iriomote’s traditional rice varieties and their cultivation s
came from southern islands and Taiwan, and seldom from northern islands
including mainland Japan. I was also afraid of the side effect of
insecticide in Iriomote paddy fields both for human beings and
endangered species such as wildcats that feed on smaller animals living
around the paddy fields. In collaboration with a local leader Mr.
Kinsei Ishigaki, I prepared a symposium in Iriomote Island, and invited
some 200 local people and told them of the danger of insecticide and the
possibility for commercializing organic rice. Next year, when they
organized a cooperative and tried to sell their organic rice directly to
consumers, I could not but become an advisor and a voluntary salesman
for their rice. Many obstacles surrounded us: hostile public servants,
debt collectors, rice dealers, and frauds. Business was far more
difficult than doing field surveys, and I even performed sales talks in
the annual meeting of the Ethnological Society of Japan when I was
invited to give a speech on research ethics. It took about 15 years
until the cooperative finally managed to pay back the rest of their
debts. Now some of the islanders regard my family as their relatives.
We can learn from these exercises that it is, as a rule, better to
refrain from doing some business with the persons we study, and that, if
we do begin some collaboration with them, we are supposed continue to do
so for life.
英文要旨の和訳(ご参考。雑誌には公開されていません)
この報告では、30年にわたる沖縄・西表島のフィールドワークの中で私が遭遇
した研究倫理にかかわる問題点を語りたい。西表島は、イリオモテヤマネコやサ
ンゴなどの自然がよく保全された島として注目をあびているが、住民は、人頭税
の重圧(1636-1902)、熱帯熱マラリア(1960年代まで)、戦後の過疎に苦しめ
られてきていた。23歳ではじめて島を訪れた私は、研究者と称する人達が何十人
も来ることにうんざりしているという不平を聞いた。それ以来、彼らは私に「研
究者は帰れ、友だちになってくれるなら歓迎しよう」と言い続けている。そこで、
この島びとたちに友とみなされるようになり、なおかつその人たちを対象とする
フィールドワークができるのだろうか、という疑問が生まれる。一番目のエピソ
ードは、酔った島びととの危険な遭遇である。彼は、民族考古学の調査をしてい
た私を、廃村の墓荒らしと決めつけた。腹が立った私は調査の趣旨を説明するこ
となく「謝れ!」と切り返した。すると彼は、瓶をつかんで私を殴り倒そうとす
るのだった。このきわめて率直な出会いのあと、私たちは大変親しくなり、彼は、
私の廃村地名の援助をしてくれるようになった。2番目の挿話は、これまで調査
される側であった話者が筆をとるという試みについてのものである。廃村の元住
民の間には、廃村の記録を残したいと願う人達がおり、私は妻とともにその編集
を手伝い、3冊の本の出版にこぎ着けた。次に、現存の村でも同じことを試みた
時、問題が起こった。ある伝承者は、自分の家にだけ伝わる伝承を原稿に書き付
けようとしたのだが、それを知った他の村人は、その真意を理解せず、かえって
問題視したのである。それは正式な伝承ではないし、厳粛な祭で歌う歌の正統な
歌詞をそこなうものだというのである。公民館の臨時総会が招集され、私はそこ
に喚問されて、どちらの伝承が正しいかについての説明をもとめられるはめにな
ったのである。第3話は、無農薬の西表安心米の産直のための組織づくりの努力
の記録である。1980年代に入ると、沖縄県では、稲作に農薬の使用が強制される
ようになった。70年代、私は西表島の伝統稲作を研究し、稲の品種もその栽培
法も、南の島々と台湾から渡ってきたものがほとんどで、「日本本土」などの北
の島々から来た知恵で役立ったものはほとんどないことを知った。そして、農薬
散布の強制が、住民だけでなく、田の周りで餌を採る絶滅寸前のヤマネコにとっ
ても悪い副作用をもつものだということが危惧された。そこで、島のリーダーで
ある石垣金星氏とはかって、現地シンポジウムを企画し、200人ほどの地元の方
々に、農薬の危険性と無農薬米の商品化の可能性について語った。翌年、安心米
組合が立ち上がり、産直の試みが始まったとき、私はボランティアの参謀兼営業
係という役割を引き受けざるを得なかった。周りにはあらゆる障害がとりまいて
いた。安心米を敵視する役人たち、借金取り、自由米業者、詐欺師……。ビジネ
スは、フィールドワークよりもはるかに大変で、私はある時など民族学会の大会
で研究倫理の話をせよと招かれたのを幸い、壇上から西表安心米のセールスをし
たこともあったのである。組合がすべての借金を返し終わるまでには15年の歳月
を要した。そして、島びとの中には私の家族を親戚として扱ってくれる人達もい
る。このような経験の教訓として、研究対象の人々とともにビジネスを始めるの
は、やめておくことが望ましいが、もし、実際に何らかの共同作業をはじめたな
ら、それは生涯やめられないものと覚悟する必要があるということであろう。