blog) 奄美大島見てある記その1(2006年8/17-8/30)
2006/08/29
奄美大島・加計呂間島 見て歩き日誌
――地球研 湯本プロジェクト 奄美・沖縄班 調査合宿のための記録
安渓遊地(補筆 安渓貴子)
写真入りで紹介を予定していますが、とりあえず、文章だけのものを載せます。
2006年8月17日
22年ぶりの奄美大島到着。新空港もおそらく初めてだったかもしれない。名
瀬市は、4月1日から住用村、笠利町と合併して、奄美市名瀬となっている。
安渓遊地の従兄の祷国幸(いのり・くにさち)の案内で、入舟町の飲み屋へ。
入っていくと、チヂン(締め太鼓)がなり、みんなが手踊りで歓迎してくれる。
たいへんに乗りの良い店だ。カウンターに座ってみれば、唄者(うたしゃ)にし
てシマヌジュウリ(奄美の島料理)のプロとして有名な、西和美さんその人が前
にいた。奄美のクイズ本にもでてくる「かずみ」という店だったのである。国幸
の高校の先輩で、龍郷でログハウス風の家を建てているというUターンの一級建
築士に紹介される。
8月18日
名瀬の奄美博物館に通い、文献資料の閲覧。午後、あまみ庵で古本を仕入れる。
その足でふたたず「かずみ」に行くと、東大から琉球大に移った伊藤亜人氏が飲
んでいた。彼の同僚で大和村誌づくりの委員のひとりである津波高志氏に会う。
ほぼ25年ぶりである。サンシンを借りて、さぐり弾きしながら、貴子と2人、西
表島の「まるまぼんさん節」を歌う。
8月19日
前日に引き続き奄美博物館で資料閲覧。
夕、県立大に通っている大島高校卒業生とその親と会食。花かげという郷土料
理店。学生の父君は、奄美市の観光紬課の課長であった。同窓生ということで、
祷国幸も参加。
8月20日
レンタカーで加計呂麻島へ。国道58号線を南下。道は良いがトンネルが多い。
住用村の内海(うちうみ)から川内集落に寄る。リユウキュウアユの生息する川。
内海では名越左源太『南島雑話』にイリエワニを捕えた絵がある場所を確認。看
板などはない。
14:00、予約してあったフェリーかけろまに乗る。古仁屋から45分で瀬相(せ
そう、方言ではスソーと発音)着。
呑之浦(のみのうら、ヌンニュラ)で「島尾敏雄文学碑」と特攻艇「震洋」格
納壕を見学。
於斎(おせい、ウセー)集落、ガジュマルとデイゴの大木を見る。
伊子茂(いこも、イキョモ)、花冨(けどみ、ケドゥン)を経て林道を、西阿
室(にしあむろ、ニッサムロ)へ。民宿南龍泊。
伊子茂から請島・与路島に渡るチャーター船は、3000円から5000円。
8月21日
加計呂麻島北西部の全集落を見て歩いた。阿多地(あだち)・瀬武(せだけ)
・実久(さねく)では地元の方とお話ができた。美しい松林(リュウキュウマツ)
に「松枯れ」が始まっているのに心が痛む。予算不足で「伐倒駆除」もままなら
ないという。
今年の集中豪雨で道路に土砂崩れが多く、通行止めが目立つ。西阿室から3本
の路が出ているが、1本しか通れないのが現状。最も主だった瀬相に出る道路が
復旧3年かかるという。まだ復旧工事にとりかかってもいないようだった。
8月22日
加計呂麻島南東部の全集落を見て歩いた。加計呂麻島の南岸沿いに走り、山を
越えて秋徳・野見山に出てようやく「産業としての農業」が行われているのを見
た。また、里山にソテツの群生地が有るのを写真に撮った。後で知ったのだが、
蘇鉄の群生地は至る所にあるのだが、手入れされていないから、藪(雑木林)の
中に隠れているのだった。
諸鈍の長浜と名付けられた砂浜ぞいにあるデイゴの並木は見事。ここは低地が
広く、基盤整備された耕地が広がる。目下工事中の所もある。ガードレールに稲
の束がえんえんと干してある。しかし未熟だった。稲作というより藁作というべ
きか。瀬戸内側へ出て海沿いを西へ。内海なので波が少ないからか、コンクリー
ト護岸が少ない海に安らぎを覚えた。
瀬相でフェリー待ちの時間ができて、三浦集落を訪ねた。俵小島(ひょうこじ
ま)に昔は家があって、30人もの若者を使ってカツオ船のための餌の雑魚採りを
していたということを経験者の女性から聞くことができた。
フェリーで西阿室へ。海沿いに東にある蘇刈(そかる)泊。ここは基盤整備さ
れた農業が行われていた。ハブの害を防ぎながら蘇鉄の実を利用する蘇鉄林の手
入れの方法についてもここで話を聞いた。
8月23日
蘇刈発、礫岩の美しい浜、ホノホシ海岸とその傍のクルマエビ養殖場を見る。
元ちとせのふるさとである嘉徳(かとく)へ足を伸ばす。縄文時代から人が住ん
だ急傾斜の浜と、打ち寄せる波は美しく、川の水も青く澄んでいた。駆け足で瀬
戸内町の反対の端の村の西古見(にしこみ、ニシヌクミ)をめざす。途中、1945
年の空中写真のある手安(てあん)の、弾薬庫あとを見る。ひんやりと涼しくて、
焼酎の熟成などにも使えそうだと思った(商品名がバクダンではこまるだろうが)
。この施設があることを、当時住民の誰ひとりとして知らなかったという説明が
あった。西古見についた時は、すでに日が傾いていたが、岸壁に西古見からの愛
のメッセージをいろいろと書いている元気なおじいさんの話に耳を傾けるうち、
すっかり楽しくなってくる。西和美さんの実家をおしえてもらったり、話がはず
んだ。夕日の美しい灯台を経て宇検村に向かう林道を勧められてそれに従う。5
キロほど行ったところで、舗装道路の上には、石が散乱し、両側から生えた草が
道幅を狭めている。舗装道路の通行どめにであって、砂利の林道を下る。すでに
宇検村である。道路はますます草に覆われ、ところどころ水が流れて路盤をえぐ
り、それがために自動車の腹をすること数回。途中、イノシシ2頭と、1羽のア
マミヤマシギらしき、くちばし長く茶色の大型の鳥に2度であう。リュウキュウ
アカショウビンも夕闇の中を横切る。写真を撮る余裕なく、野宿の可能性を覚悟
しはじめるころ、宇検村側の畑に出て、車を見る。阿室という村であった。今宵
の宿の、宇検村の湯湾まで40分で走る。途中、舗装道路の真ん中にいたアマミ
ヤマシギらしき鳥、真上に飛び上がる。10時間のドライブだったが、終わりよけ
ればすべてよしとしよう。1300CCのオートマ車では通るのが難しい林道が多いこ
とを肝に銘じた。
8月24日
湯湾発、大和村を目指す。今里の手前から林道に入る。草は茂っているが、落
石が少なく走りやすい。フォレストポリスと称する山の中の遊園地に到達。ゴー
カートなどいろいろ作ったものの、利用者はひきつづき減少中。がんばっている
のは、食堂のみと見受けられる。勧めにより、にゅうめん風あっさり味のアブラ
ソウメンと鶏飯を食べる。役所のある大和浜にいたり、村長・教育委員会の事務
局長・公民館長に挨拶。公民館2階で学生実習の最後のまとめをしている津波・
伊藤氏と情報交換。国直の民宿を下見して、夕刻名瀬に戻る。
8月25日
奄美博物館の資料を見る。学芸員の高梨修氏に案内されて、原口虎雄先生の資
料を、令息の原口泉鹿児島大教授が、奄美博物館に寄贈された、その資料を見せ
てもらう。りんご箱程度の段ボールにおよそ300ほどあった資料の整理が始ま
りつつある。学生10人を使って丸3日かかったとのこと。奄美からもちだされ
る一方であった資料が、鹿児島からこのような形で戻ってくるというのは、前代
未聞のことであるとの高梨氏の評価がもっともに思われる。学生の博物館実習が
始まっており、さっそく南島雑話の色つきの絵の展示が始まっていた。大島高校
進路指導室を、卒業生3人(県立大学1年3年4年生)とともに訪問し、勤務先
の学部にあたらしくできる学科の内容を説明するという営業活動。
8月26日
午前中、共同調査のための手配を電話でした上で、龍郷町方面へ車を走らせる。
大島でほとんど唯一水田を作っている秋名(あきな)へ行くと、芒の長い稲が干
してある。赤米で餅米であるというが、しいなと未熟果ばかりで、ここでも藁作
に近い。内地からとりよせたところ、餅米だったという。空港そばの奄美パーク
により、40分だけ田中一村の絵を見学。17時から、名瀬平田町の屋崎一氏を訪ね、
大著『与路島誌』をめぐり聞きとり。蘇鉄の大切さを奄美の人たちは再認識すべ
きであるという持論をうかがう。安渓遊地の祖父の弟・祈富四郎(西阿室)とは
非常に親しくしておられたということを聞く。
遅い夕食を食べにいった呑み屋(おこみ焼きや満月の向かい)で、遊地がオカ
リナを吹いたところ、いっしょにいたグループの人たちに誘われて、大熊(だい
くま、デクマ)のモチモレ踊りを見に行こうという相談がまとまる。100名を越
える若者たちが、輪になって踊り、いただいたご祝儀を1万両!などと披露する。
借金してでも祝儀を出す地域だという。いっしょに踊って楽しむ。「いかがです
か?」と中年の男性に尋ねられたので「デクマの底力を感じますね!」と答えた
ら、びっくりしたように「シマンチュですか?」と聞かれてしまった。もう面倒
な時は、「祖父が」を省略して「ハイ。加計呂麻出身で、22年ぶりの里帰りです」
と答えることにしている。大熊の人々は、地域の団結心があり、ハンセン氏病の
人々に対しても暖かく人間的に接していたという『大熊誌』の記述を読んでいた
ための返事だったのだが、地名の方言による発音は、シマンチュのしるしとして
大切である。案内してくれた人は、奄美広域観光組合の世話人であった。午前1
時宿まで送っていただく。
8月27日 大雨。笠利では数ヶ月ぶりの本格的な慈雨だったよし。
名瀬の楠田書店で、本を買う。2万5000分の1の地図も赤尾木以外をそろえて
買う。
龍郷を見る旅の続き。倉崎海岸の宿海風(うみかぜ)に泊まる。建てて4年目な
のに、壁紙の可塑剤に有機リンが使われているらしく、窓をあけておいても遊地
は頭痛がする。夕方、1日目に知り合った一級建築士の山の中の家におじゃます
る。大きなビーム&ポストの家で、天草からとりよせた磨き丸太で組まれている。
奥さんの同級生たちが続々とお祝いに訪れる。家の新築祝の宴に招かれたのであ
った。花かげの女主人や、前笠利町長だった、名瀬市の助役にも紹介される。覚
えたばかりの「島のブルース」をオカリナで披露。
8月28日
奄美市笠利町を廻り、笠利崎の灯台やあやまる岬を見る。大潮と見えて、潮の
引いた浅瀬でウニなどをあさる男性が4人見える。
民宿はまひるがお。スイカを頂く。種を取っておいて、と言われたので、水に
沈んだものだけを集めておいたところ、なぜそのようなことを知っているのか、
という話から、奥さんの一代記をうかがう。
奥さんの言葉「合併で笠利町がなくなるとき、私は無人市のところに野菜を並
べながら、笠利町民の歌を泣きながら大声でうたったんですよ。そうしたらよう
やく胸がすっきりしました。あんな、笠利町長のようなすばらしい人は、もう出
ないとみんなが言いますよ」
1時まで、旅日記をつけて、明日からの共同調査に備える。
8月29日
京都大学大学院でイノシシ猟を研究している蛯原一平さんを空港に迎えて
名瀬の南海日々新聞へ取材を受けに行く。大島新聞からも午後取材を受ける。
31日か1日に、取材をしたいとのこと。
夕方まで奄美博物館で本などの資料を見せていただく。
入舟町に「さねんばな」の佐竹京子さんを訪ねて懇談。
8月30日
2つの新聞に地球研の奄美・沖縄班の研究が始まるという紹介記事が載る。
見残した村が多い住用村を廻る。巨大な採石場のある村では、反対の声をあげる何台
もの街宣車を見る。
17時、名瀬の平松町に、歴史家の山下文武氏をたずねて教えを請う。