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清流への思い)僕からの手紙(その1)

2006/01/23(月)



山は青きふるさと

予定地とされる場所

水は清きふるさと

メンバーの一人のふるさとに寄せる思いの連載を始めます。

pdfファイルでは以下のページでも読めます。

http://hw-tv.com/seiryu/html/my-letter/index.html



 清流を守りたい僕からの手紙(その1)
2006 年1月号

 お変わりございませんか。今冬の寒さは近年になく厳しく感じられます。僕が25 歳から18 年間暮らした北海道ではこのような状態を「シバレル」といっています。

 床暖房やエアコンに頼っている人々はさほどでもないでしょうが、コタツに入っている農村部の方々は、寒い部屋の中で丸まっておられることでしょう。自然環境と付き合うにはそれなりの「がまん」と「体力」そして多分の「鷹揚さ」が必要なのですが、それがまた自然の中で暮らす魅力のひとつでもあります。

 さて僕の実家がある故郷は、山口市仁保地区農村部でもほとんど忘れられたような田舎で、一貫野集落というところです。

 実は、そこは「知る人ぞ知る」、徳地と並んで「マツタケ」が出荷できる山口県最後の生産地のひとつともいえる地区なのです。(でも、近年はめっきりと少なくなりました。
 ところが2005年3月に突然、山口市一般廃棄物最終処分場の次期候補地として自治会長(山口市連合自治会長でもある。)が手を挙げ、行政がにこにこ顔で飛びついてしまった椹野川支流、仁保川源の辺境地区でもあるのです。

 常識のある人なら絶対に受け入れがたい、暴挙とも言えるこの計画に、真っ向から反対行動を行っている「ふしの川清流の会」というチームの一員として、皆さんには仁保川が持つ魅力をお話しして、ふるさとの川を守りたい僕の気持ちと、清流の会が活動している意義を理解していただければと思います。

 仁保川は、40〜50年前まで鮎が「うようよ」というほど泳いでいたとても美しい川でした。勿論、鮎やうなぎは椹野川漁協の鑑札が無ければ獲れないものでしたが、少々すばしっこい子供であれば、手掴み出来たほど多く生息していました。

 小・中学生の頃の僕は、水泳は得意でしたが魚獲りはそれほどでもありませんでした。今でも釣道具は持っていますが大漁というほど釣れたためしが無いほどです。ただ楽しみとして、友人たちと気が合えば「フナ」や「はや」を捕っては川原で塩焼きして食べていました。それが随分おいしいおやつになっていたものです。

 しかしながら、仁保川はいつも穏やかに僕たちを受け入れてくれたわけではありません。大雨の時は、仁保地区を取り囲む山の「山口県の方言で、えき(浴)」と呼ばれる谷あいから流れ込んだ雨水が集まることによって、恐ろしい姿を見せることがあります。今から思えば、洪水とも言える流れがあったればこそ、いつもきれいな川底が保たれていたともいえるでしょう。

 自然の摂理とはうまく出来ているものです。

 とはいえ、僕と仁保川との接点は、子供のときは親の転勤、大人になってからは僕の転勤とで、現年齢58歳分の10年あるかないかの程度なのです。つまり、小学校1年と3年の一時期及び、中学・高校6年間と、転校先から春休み、夏休み、冬休みに帰省し、一貫野集落と高松集落に住む祖母の家を交互に訪れた期間を合わせた程度です。

 それだけに、故里の山河・田畑との付き合いも充実しており、極めて濃密であったといえます。なにしろ、団塊の世代ですから子供の数は掃いて捨てるほどいましたので、町場の小学校からたまに訪れる僕にとっては全てが新鮮で、山であろうが川であろうが至るところを遊び場として、その目的に応じて仲間の年齢・種類も離合集散を繰り返していたからです。

 言わば、土地の子供たちよりはるかに広く浅く田舎と付き合ってきたわけですから、いろんな意味で広い世間を知ったのだと思います。

 高校卒業後は社会人となって名古屋、静岡、北海道から九州まで転勤を続けてきました。36年後に定年になってようやくこの地に定住するために帰ってきたばかりです。つまり、小学校唱歌「ふるさと」で歌われるように、「志を果たして、いつの日にか帰らん」という夢を現実に果すことができたわけです。

 僕が山や清流を維持したいという思いは、青春時期に故里から離れ、北から南と多くの山や川を見ることが出来たので、観光的に誇れ、マスコミ受けするほどには世間に目立つものが何もない故里、それだからこそかって僕の見慣れた田舎が持つ安心感がとても心地よいからなのです。

 気持ちとしては、快適な生活をするためには文明の利器が持つ便利さを求めつつも、源流の原点を守るような活動がとても大切であると思っているのです。

 しかしながら、このふるさとを生活の拠りどころにして懸命に維持し、発展させようとしてきた人々にとっては、「何もない=邪魔なやっかいもの」でしかないのかもしれません。

 「緑も清流もほどほどにあればいいが、それでは食っていけない。」という声を聞いたことがあります。

 山口市民の飲み水である「ふしの川」は、小鯖地区の藪ケ尻集落から発して「一貫野川」となり、坂本川と呼ばれて仁保川を形作り、大内地区で「椹野川」となって小郡、秋穂を経て周防灘に注ぎます。
 
 この清流を最源流部で汚してしまえば、これまでのような安心安全な飲み水を確保する望みは絶たれるのです。このような源流に住む我々が、率先して清流を守らなければならない義務と責任を負っていることについての認識があまりにも希薄になっていると言わざるを得ません。

 そうでなければ、どうして「集会所の改築」や「農機具倉庫の改築」を始めとする物質的な見返りと引き換えに、源流部に一般廃棄物処理場を誘致するという無謀な考えに行き着くことが出来るでしょうか。

 今年3月からその計画が持ち上がっていることを知って以来、反対する仲間が少しずつ増えて、少数派でありながら強力な理論武装集団として処理場建設賛成派や行政と対等以上に渡り合って今日に至っているのは、愛すべき故里の山河への想いについて、前述のような伏線に支えられた信念に基づくものであるのです。

 次回は、その一騒動の顛末をお話しすることにします。お楽しみに・・・





ふしの川清流の会