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清流を守る)「水は人間のいのちやから」椹野川漁師高石敏男さん聞き書き

2005/11/03(木)



椹野(ふしの)川漁師・高石敏男さんの語録から

 椹野川は飲料水だから川を悪くすることは、自分に唾をはいて、自分で受けるという形になる。

 若い人は川は大事にしてもらいたい。川を汚して、跳ね返ってくる何の利益があるか。川を汚して、返ってくる得なものがあるか。

 水は人間のいのちやから。


 部分的に、安渓遊地編『やまぐちは日本一――山・川・海のことづて』(弦書房、2003年)に収録しましたが、ここに紹介するのは、その元の語りの省略なしのバージョンです。
 椹野川という川がどんな川か、ここに雄弁にかたられています。


 この報告は、瀬戸内海に流れる山口県の河川と人間生活のかかわりをめぐる聞き書きと、若干の解説である。二〇年の長きにわたってふしの川を汚染から守ってきた、この人の顔を知らない土建業者は「もぐり」であるとまで言われた高石敏男さんが若者たちを前に熱弁をふるわれた語りの記録である。ご本人の目を通していただいたものである。
ここに語られているのは、美しい川の不必要な開発への警鐘であり、人間中心思想への反省であろう。川は大自然そのものであり、いかに堤防を高くしても絶対に洪水を起こさせないように押さえ込むことはできないことを、ようやくこの国の官僚たちも理解し始めたところである。その豊かな生物多様性によって瀬戸内の原風景を唯一今に残す「奇跡の海」とまで称えられた周防灘、ことに秋穂の干潟(加藤真『日本の渚』岩波新書参照)を守ってきたのは、そこに流れ込む川で漁をしてきた、地に足をつけた人々の地道な血のにじむような努力のおかげであることが、はっきりわかるのではあるまいか。ひとつの川の流域に住む人間たちが、その生命地域(bioregion)のすべてのメンバーとともに、ひとつの運命共同体であることを自覚すること。屋久島の詩人・山尾三省さんは、この考え方を「流域の思想」と訳して、これが二一世紀以降の人類の課題であり、すべての川の水を再び飲めるようにしたい、という夢をかかげている。私もまた、川の最源流部に住んで、その飲める水の恩恵に浴しながら地道な努力を続けたいと願っている。

川こそわが人生――椹野川漁師・高石敏男さん聞き書き

 二〇〇〇年一〇月二八日(土)の午後、山口県立大学の安渓ゼミの三年生とともに、ずっと椹野川とともに生きてこられた高石敏男さんのお話を山口市桜畠の大学の研究室でうかがいました。
 お歳を感じさせない大変お元気なお話ぶりで、聞く方が圧倒されるような迫力を感じました。その後、立石さんが捕られたアユと「子うるか」を届けてくださり、まことにおいしい経験までさせていただきました。ありがとうございました。なお、聞き書きの作成にあたっては、山口県立大学非常勤講師の安渓貴子さんに助力をいただきました。

私は吉野川上流の生まれです。
 私は四国の高知県本山町で生まれて育ちました。家の周りは川で、これが吉野川の上流にあたります。徳島県に河口がある吉野川の上流は高知県を流れているのです。
 家の近くでは、早明浦(さめうら)ダムというダムを造るという工事がされていて、労働者や技術者がたくさんきていました。やがてそこに居つくようになって、人口もかえって増えていました。このダムが完成したのが、ようやく一〇年前のことです。私は、子どもも結婚し、土地も売って、ふるさとに山はのこっていますがもう、どこがどこだかわからんです。その山には、ひとかかえもある杉や桧がのこっています。一本あったら家が建つんじゃないか、と言ってみたら、一本の木は割いたら(製材したら)外へ曲がるから駄目といわれたことがあります。芯持ち材でないといけない、ということです。それに、山の中の木を倒すだけでも大変な金がかかるということです。でも、この山を売ったとしても元がとれません……。
 そういう山ばっかりの川のほとりで育ちました。大正一一年生まれ、今七八才です。兵隊から帰って、戦後は高知で教員をしていました。昭和二六年に従弟に呼ばれて山口へ来たんです。

昭和三五年ごろまでの椹野川
 川が好きでした。当時の椹野川はきれいでしたね。川の淵で泳いで河原にあがって腹ばいになって腹を温めたものです。今は草が生えてしまって河原がありません。
 アユ釣りに川に行く時は、昼食は持って行きましたが、水筒はもって行ったことがありません。水は川の水を飲みました。芸術短期大のそばの大きなパチンコ屋の下あたりまでは川の水をそのまま飲みよったです。竿を持って川に入って、一〇メートルから一五メートルぐらいの間隔で並んでアユ釣りをしながらお互いその水を飲んだものです。つまり、上の者が小便をする、そのすぐ下で平気で川の水を飲みました。「三尺流れたら真水」と言いましたから。弁当箱には御飯を入れて、梅干・こうこを入れ持って行きます。川の水を弁当箱にすくって飲みました。几帳面な人は、河原に穴を掘って二、三分したら水が澄んできますから、その上辺の水をすくって飲みました。昭和三二年ごろまでは当たり前のことだったのに、今現在はそこの水は飲めません。
 その頃は「今日は川へ入ったからお風呂へ入らん」と言ったものです。今は「今日は川へ入ったからお風呂へ入らんと新しいシャツが着れん」といいます。今は仁保川でさえそうなってきました。
 川は誰のものでもない
 「川は誰のものでもない」――これが私らの基本的理解です。しかし、川には管理者がいます。そして、川についての権利をもつ人達が二種類います。まず、水利権者。これは農業や工業や飲料水について定められます。それから漁業権者、これが漁業です。このほかに一般の利用権があります。例えば、水のない河原を河川公園にするというようなことです。
 川は一級河川と二級河川とあって、一級は国(建設省)の管理、二級が県の管理になっています。

魚も誰のものでもない
 川の中には魚がいます。この魚もまた誰のものでもありません。川にアユやカニがおっても、これは誰のものでもないんです。例えば養殖した稚魚を川に入れるとします。入れてしまうと、これはもう誰の物でもないんです。しかし、誰の物でもない、と言ってどんどん捕れば、どうなりますか?この資源を乱獲から守るために、特定の人に魚を捕る権限を与えよう、というこれが漁業権です。漁業権は対象とする魚種ごとに定められていて、アユ、コイ、フナ、ウナギ、カニなどを捕る権利です。川によっては、カニの漁業権がない川があったりします。この権利を認めるのは、知事の役割です。
 戦後河川法の見直しがあり、内水面に対する第五種協同漁業権というものが昭和二五、六年ごろ公布されました。水産業協同組合法という法律があって、それに基づいて魚を捕りたい人が集まって組合を作ります。組合として認められれば、その団体は権利の申請ができます。漁業法にのっとって漁業権取得の申請をするわけです。
 漁協を設立して漁業権を申請するためには、その漁業権を具体的に行使するための規則を作る必要があります。また、組合員以外に、魚を捕っても、漁業権と関係のない「遊漁者」もいます。その人たちを差別しないように、特別な差が生まれないように、遊漁規則も作り、これを添えて申請します。
 内水面の漁業権には、海と違って、資源を増やすための増殖義務というものがついてきます。具体的には親魚の放流、稚魚の放流、産卵場の整備といったことです。例えば、川が汚い所は、ブルドーザーでかきまわしてきれいにする、などということも産卵場の整備として認められています。漁業権を申請する時に、魚種ごとに出すことは先に申し上げましたが、それぞれの増殖法も付けて申請するんです。
 ある申請を認めるかどうかは、知事が諮問します。内水面漁業協同組合連合会が答申して、知事が認可し、県報に載せます。
 このような手順で椹野川における第五種共同漁業権を山口県知事が許可し、県報に載って登記されて椹野川漁協が昭和二七年に成立しました。そして、私は昭和三二年に椹野川漁協に事務員としてはいりました。山口に来て六年たっていました。
 河川法では、河川の管理について、治水と利水ということをうたってきました。平成九年になってようやく「環境」という面が付け加わりました。
 漁協の組合員になると、組合費を払いますが、それプラス行使料がかかります。行使料というのはいろいろな漁法を実際におこなうことについての料金のようなものです。漁法によって値段もちがいます。投網、刺し網、流し網、釣りなどです。
 「やな」はできる場所が限られているので、入札制になっています。「やな」は、杭を大型機械で川床に打ち込んだりしますから、漁業権があっても河川管理者、つまり県知事の許可がないとできません。
 漁協のもうひとつの仕事は、遊漁者に対して「遊漁許可証」を発行することです。その料金も組合ごとに決めます。椹野川では、組合費と(平均した)行使料を組合員が一〇〇〇円払うとすると、遊漁者は、一二〇〇円から一三〇〇円払う程度の差に設定しています。あまり大きな差をつけることは差別的扱いになりますし、差が無ければ組合員になる意味がありません。ある妥当な範囲で、それぞれの組合が決めて、県知事の諮問、連合会の答申という手続きを踏みます。ですから、遊漁料を値上げしたい、という時も県知事の許可を得ることになります。
 組合費は、年間二〇〇〇円です。行使料は、アユ釣りなら四〇〇〇円、刺網でアユをとる人は、二万二〇〇〇円というように決っています。遊漁料は、アユ釣りの場合四五〇〇円です。
 川が汚れると、魚が減っていきます。だから、川を濁すと漁協がとんでいきます。しつこいぐらいうるさく言います。その理由は簡単です。魚がおらんようになるからです。川の漁協には、前に申し上げたように増殖行為、つまり放流するなどして資源を増やす、ということが組合の仕事になっていて、申請段階からいくら放流するということが決っているんです。海では、資源を増やすなどということは考えなくてもよかったんです。ですから最近海でも言われるようになった栽培漁業というのは、もともとは川の発想だったわけです。

栽培漁業としてのアユの話
 今、椹野川では、仁保にある中間育成の施設で〇・五グラムの稚魚を一〇倍ぐらいに大きくして放流しています。今は一〇月末ですからアユがおらん時期ですが、一月から三月にかけて、〇・三〜〇・五グラムのアユの稚魚を仕入れます、栽培公社という団体がありまして、そこが各単協に配って育成・放流させます。
 椹野川漁協で四〜六グラム、平均五グラム見当に育てて、分けて放流します。魚は生き物やから、みんな同じ大きさじゃないですよ。平均です。一キロを量って、何匹おるか見れば、平均体重がでるでしょう。例えば一匹四・五六グラムですよ、という形で計算するんです。
 水温がある程度高くないと、食べても太りません。一キロの餌を喰えば、どれだけ太るかといことは決っているんですが、寒いと餌の喰いが悪いです。水温が低いと、魚が活動しませんから餌を消化せんのです。それが水温が上がってくるとよう食べるようになります。速い時にはひと月で一〇倍の体重になるものですが、平均すれば四〇日ぐらいで、五〜六グラムになります。一月に入荷したものは、水温が低いのでどうしても放流が三月中旬にはなります。放流したくても、川が冷たくて、水温が上がらんと放流はできません。山口県では「錦川上流」という漁業組合が一番遅いです。五月にならないと放流できません。他の川では、河口から順番に放流して遡っていけば、最上流部は五月ごろになるんですが、錦川はダムでいくつにも仕切られていますから、そうもいきません。放流しても広がらないんために、独立した漁協が錦川には四つもあります。山口県では、ここだけですね。新しく作るダムに魚道をつけだしたのは、ほんの最近のことですよ。
 自然遡上のアユは四月ごろ、川の水温が摂氏一〇〜一二度になると海から上がってきます。「大潮の潮先に乗ってくる」といって、大潮のころに、何回か繰り返し上がってきます。椹野川は自然遡上で相当上がってきますよ。魚道さえあれば、放流せんでもあがってくるんです。
 アユは、秋穂渡瀬橋の下にある福良井堰(ふくらいぜき)まではバァーッと上がってきます。椹野川の井堰を下から数えていくと、一番下が名田島井堰、またの名前は二島井堰。名田島井堰は、五月二〇日までは起こしませんから、いくらでもアユが登ります。次が淋光井堰、これは柳井田の所です。ここは魚道を作ったのに、魚が上がらんから、三年前に魚道をやりかえました。ここの近くで山口市の飲料水を取っています。大歳の高田橋と吉敷川との三角州の所に水道の浄化施設がありますね。あそこで浄化してまた配っているんです。昭和二六年に私が山口に住み始めたころは、夏でも冬でもよく断水がありました。庭の植木に水をやっていると、通りがかりの人がにらんで通るぐらいでした。今はあれがあるおかげでよくなりました。まあ、味では井戸水の方がはるかにうまいですがね。話がそれましたが、その上が福良井堰でここまでは自然遡上でアユがあがってきます。

私のアユの捕り方
 私がアユ捕りするのは、日の入りの二〇分前に川に行き、網を入れます。その時アユは流れの瀬で餌を食べています。アユはよどみ(淵)で眠るので、瀬から淵へ動く時に刺すのです。「刺す」とは、太さ〇・四〜〇・六ミリぐらいの化学繊維の糸で編んだ網を流れに垂直に広げておくと、これにひっかかるんです。アユはもっぱら昼活動します。昼は目が見えるけれど夜は見えないから。アユはよどみで眠ります。寝とっても流されんところで寝るんです。夜、淵を懐中電灯で照すと、目をさましたアユがパパパと飛ぶのがわかりますよ。私のような捕り方をするのは、椹野川でも三人しかおりません。瀬に石を入れると、アユは上か下の淵へ逃げ戻ろうとします。それがどっちかを見極めるのが漁師としての腕というものです。小手調べの石でどっちに逃げたかを覚えておくと、次は逃げた方に網をかければ捕れるわけです。
 私は日没のあと漁をするんですが、そこで捕れるアユは、人にやるものが主でした。家にもどればもう夜の一〇時ころでしょう、昔は冷凍庫がないので、翌日の市場に出すまでもたなかったんです。

アユを湯田の魚市で売りました
 子どもがいるころはうちは裕福ではなかったです。だから、一匹でも余計に売って収入をあげようとしていたものです。漁協に入った時には、「川にいつ行ってもいいから、川の管理をしてくれ」という条件で仕事をしよったですが、漁協の給料は少なかくて、組合長になったときの年収でも四二万円でした。これではとても暮らせません。川へはいつ行ってもいい、昼は寝とってもいい、という条件でしたから、組合の事務仕事は、日曜日に中から鍵をかけてやっていました。
 湯田温泉のタナカホテルの所に、昔は魚市があった。そこに仲買が魚を持ってきて、競って、小売が買っていた。そこでアユをせりにかけてせって金をかせいだ。一〇匹一〇〇〇円に売れればいい方でした。捕った魚をみやすく(たやすく)換金できたんです。漁協はその魚市場の一画に土地を買って建ててありました。タナカがあの土地を買ったのは昭和五〇年代の始めくらいでした。
 夜捕ってクーラーに入れておいて朝売るんです。氷水の中に塩を、海の潮くらいの辛さになるように入れておくと、温度がうんと下がるからそこに入れておきます。でも、アユは、ケイ藻を食べているので腐りが速いんで、苦労しました。

アユを焼いて保存
 アユがたくさん捕れたら、冷凍のないころは焼いて乾かしました。アユの尾びれのつけねのところに自転車のスポークを尖らせたもので穴をあけて、ひもをとおして石油缶の底を抜いたものの中で吊るして焼きます。一缶で三〇匹から四〇匹吊るせます。押さえたらパリッというくらいまで焼き上げる。
 この食べ方はいろいろあります。例えば、/綽罎して戻して、夏の素麺のだしにする。茄子を炊く時にいりこのような感じでほぐして入れたらおいしい。摺り鉢ですってほうれん草のおひたしにふりかけたらうまいですよ。

アユの内臓の食べ方
 アユはケイ藻を食べるから腐りが速いです。はらわたの腐りが速いんです。ウルカは、アユのはらわたですから臭いですよ。しかも、アユの内臓は天然だから、コケなど食べよるから、砂があってじゃりじゃりします。魚が腐ったのと同じ臭いがします。苦い、臭い、じゃりじゃりの三拍子そろっていますが、ウルカの好きな人はそれがおいしいといいますが、私は苦手です。
 秋が近くなると仔(卵や白子)をとってつくる塩辛をコウルカといいます。仔は雌(卵)に雄(白子)を混ぜることもあります。一キロの仔に一二〇グラムくらいの塩を加えて、発酵させるために混ぜます。毎日混ぜて空気を入れて、発酵したらそれでいいです。今のものは発酵を始めて完全に発酵が仕上がる前に食べてしまいますね。この方はいい匂いがしますからどなたにもお勧めできます。コウルカを作ったら私はみんな人にあげます。あげることによって喜んでくれたらそれで私は嬉しいんです。こんど差し上げましょう。冷蔵庫ならもちます。上に脂のようなものが浮いてきますからよくかき混ぜては食べてください。

アユを食べる生き物
 アユは昼間動きますがウナギ、ナマズ、カニなどは昼は隠れていて見つかりません。夜行性といっても、一晩中活動するのではないんですよ。日暮れから夜中の一二時ころまでに活動するのものが多くて、それから明け方はあまり活発に動きません。だから夜行性のものは、一二時ごろには揚げに行きます。カニ篭なんかですね。それ以上置いておくと盗られます。盗る人がいるんです。
 ウナギ、ナマズ、カニは逆に夜行性です。ですから、これらは昼の川には見えないのです。その性質を利用して、餌を入れた篭を川につけておくと、カニやウナギがはいります。一二時過ぎに上げる人もいます。朝まで置くと、他人に盗られることがありましたから。盗る人は、今でもありますよ。
 一尺かける二尺ぐらいのカニ篭は、釣り道具屋に売っています。カニなんか本気で捕ろうと思ったらアユのくずを使います。小さいのとか、網を口にくわえてかかったものなんかです。かかったアユを食べる動物がいます。カメ類や他の魚類です。カメ類は、スッポン、イシガメ、ドロガメ、クソガメ。クソガメはものすごく臭いのでこう言うんですよ。魚なら、ウナギ、ナマズ、最近では外国から来た魚もいます。ブラックバス、ブルーギル、カムルチーなどです。二〇センチもあるアユでも三〇センチのブラックバスが来て食べます。アユを一〇匹捕ったら、一匹くらいはそんなのが口にくわえて、齧られてかかっていて、これらはクズということになります。
 他に海の鵜がアユを食べます。水鳥が保護鳥になりましたが、水鳥は、そりゃひどいです。食べる量はおおきいです。このあたりはカワウですが、大きな川ではウミウがきますから、かなりの量になるでしょう。鵜飼いに使うのはウミウですが、紐をつけて泳がしても捕るんですから、自分で自由に喰わしたらどれだけ食べるかしれません。これは水産庁も多いことを認めていて、鵜飼いでウを養うのに、アユを一日三〇匹は食べさせるんですから、これは間違いないです。ウがアユについたら、他の魚は食べないで、べったりで、アユしか食べませんから。
 こんなにいろいろ食べるものがおるんですが、しかし、放流した稚魚がどのくらい生き残ったかという調査ができていません。「少ないのお」と言っているだけです。

アユの病気
 病気になったアユもクズです。冷水病といって、体がびらんして赤みがでる病気があります。これは川で感染します。水温が一八度以上になったら死んでいきます。冷水病は今全国的に増えています。これはアメリカあたりの輸入のマスに着いてきたようです。明治時代のこと。琵琶湖が日本の冷水病の供給源です。琵琶湖は温度の低い所があってそこで生き残って増えたと言われています。琵琶湖の魚は、なんぼか抵抗力があったでしょう。琵琶湖から他の川に魚とともに移って、そこから別の魚にうつって死なせています。
 菌の種類を調べるのに二週間もの培養がいるので、なかなか大変です。僕らの考えでは、琵琶湖のは抵抗力が強いと思うんですが、見ただけじゃこれはわかりません。琵琶湖では、冷水病で死んだ魚の姿を見るということはないんです。ところが、今年(二〇〇〇年)の春、錦川の上流で魚がぷかぷかたくさん浮いているのを見ました。これは、即死ではありえないので、調べてみたらやっぱり冷水病でした。人工種苗は、放流する前に無菌であることを確認してから流しています。それなのに病気がでるのは、やはり川に冷水病の菌がおるということでしょう。アユだけじゃなくてハヤやイダ(ウグイ)も冷水病にかかったのを見ます。椹野川なら、病気で弱った魚は、すぐにブラックバスや鳥が食べるから見えんのです。錦川の上流では、ブラックバスがおらんし、水もきれいなので冷水病の魚が浮いているのがよく目についたんでしょう。

大水の後アユ釣りに夢中になって人が死ぬ
 吉野川ですごした子どもの時、深みにはエンコウさんが出ると聞きました。「一人で川に行っちゃいけんよ。エンコウがおるから川には友だちと行け」と言われました。椹野川にはエンコウさんは現実にはいませんね。
 でも何人か川で流されて死んだことはあります。子どもより大人が死んでいますね。それは、アユが捕れるのは水が出た後、よくがかかるんです。大水の後に苔が残っている石がある所を見つけると五〇匹も一〇〇匹も捕れるから、それを探して歩きます。餌が流れて、そこにしか残ってないのに、アユというものは、じっとしていないので体力を消耗するんです。水槽に入れれば二日でずいぶんやせてしまいます。
 それを探しに、胴長という胸まであるゴム長靴を履いて歩いていると、苔ですべってひっくりかえるでしょう。胴長に空気が入ると、足の方が浮いて頭が下がっておぼれ死ぬんです。ウェットスーツでも頭が下がるでしょう。頭は重いんです。だから増水後、アユかけに行って大人が死ぬことがあります。私の経験した範囲では、三人死んで、そのうち子どもは一人だけでしたね。

椹野川漁協
 魚を捕ることの興味で、昭和三二年に椹野川漁協に入りました。それからのご縁で漁協の組合長もしました。組合長の仕事と漁は両立していました。しかし人にあげる魚は捕れたが売る魚は捕れなかったですね。
 ――ちょっと質問させてください。椹野川漁協の組合員の数は?
 二二〇人から二三〇人です。そのうち正組合員は一七〇人ほどで、のこりは準組合員です。区域内に住んでいて、年間三〇日以上漁をする人が正組合員、三〇日未満が準組合員となっています。組合員も歳をとってやめたり、亡くなったりで数が変りますが、親が死んで子どもに譲ろうということがあると、その資格を認めるかどうかでもめます。海の漁協の合併の話はよくありますが、各論でもめていますね。例えば、日本海では、船をつくるにも大きい船がいりますから、どうしても借金が大きくなるんです。
 川はそれぞれ独立しているから、川の漁師には漁協合併の価値がありません。よその川で漁をしたければ、向うの漁協の鑑札をもらえばできることですから。
 毎年一回集計していますが、県内一七漁協で、だいたい四二〇〇人ぐらいの組合員がいます。でも、専業者は五パーセントいません。一パーセントぐらいかもしれません。

アユの人工孵化を試みました
 アユの人工孵化を試みました。アユは九月末から一〇月に産卵します。アユの卵は付着卵なので、ふつうの丼なんかに入れてはくっついてしまいます。ですから、漆塗りの漆器を使うとか、丼に油を塗っておくとか工夫をします。アユの腹を絞って、オスの精子をかけて鳥の羽根で混ぜます。始めたころ、つまり昭和四九年から五一年ごろは、三分の一ぐらいまでは、背骨が無かったり、曲っていたり、いろいろ奇形が出ました。まともなのは半分ぐらいだったでしょう。「人工孵化のせいで、まともな魚は生き残るから」と説明したことがあります。このことを納得してもらうのに一〇年くらいかかりました。今も池で育てると奇形が一パーセントくらいでます。尻づまりに丈が短いのは今もおります。脊髄の間隔が狭くなったりしています。背骨がうねうね曲がったのは、今は出ません。餌のせいではないですか?なにぶん人工の餌ですから。私らは平気で食べましたが……。

毒を川で使う時代もあった
 川に毒を入れて魚を捕っていた時代もあります。ゲランといって、牛や馬のダニなどを避けるのに使う薬でした。叩いて汁を体に塗るものでした。しかし魚は自分の身の避け方を知っていると思います。なぜなら、毒をやると大きいのは逃げます。小さいのは死にますが。ところが酸欠の時は大きいのから死にますね。ゲランは戦前の話です。今はダニよけの薬は化学薬品に変りましたし、毒物を川に入れるのは禁止になっています。除草剤を撒き始めた
 以前は殺虫剤を使って、その容器などを川で洗っていました。当然魚は死にます。撒く方に悪意はないんですが、魚が死ぬる一歩手前毒の状態のものをたべた人はいったいどうなるんでしょう?
 除草剤が出た時、エビ、カニ、アユ、ウナギ、ナマズ、などは死にましたが、コイ、フナが生き残りました。つまり鱗の大きい魚が生き残った。この意味は魚が毒を食べて死ぬよりは、皮膚が毒にあたって鱗のない魚がまず死んだのでしょう。
 昔は竹を交互に編んで土留めをする「しがら」で水路を組んでいましたが、夜カーバイドのカンテラとヤスを持って歩くと、ウナギの三匹や五匹は必ず捕れよったんです。しかし、除草剤を撒きはじめた四、五年は、一匹も魚が捕れなくなっていました。メダカもやすうにおったのに。餌が水路におらんくなったから、ハエンボの小さいのもおらんくなった。大きなウナギが真っ白になって死んどるのを見たら残酷やった。
 田の用水は、竹を利用した「しがら」で組んであったから、土を掘ったらドジョウでも、カニでもウナギでも、生き物たちが身をひそめてかがんどる巣のような場所がありました。そんな所には一ヶ所に魚がようけおりました。それが今はひとつもおらんでしょう。
 昔は早乙女さんが来て椹野川の河口の名田島から上流の仁保へといっせいに田んぼを植えていったものです。主に徳地の女の人が廻ってきて人手でいっせいに植えた。それを抜かしたら自分で植えんといかんから、いっせいに代かきをします。そして植えた後に日にち違わず農薬を撒いたから、同じ地域に一度に農薬が撒かれて川にはこたえました。今は各家でばらばらに植えているから、昔ほどひどくはないです。今は農薬、除草剤の問題はほとんどなくなりました。

背骨の曲った魚でクリーニング屋の汚染に気付く
 ――いつごろから川が汚れたと思われましたか?
 思えば昭和三九年の国体の時が川にとっては大きな境でしたね。宮野温泉のヴィラ・プリンスの所でそれ以前は泳げたんです。宮野の龍華でも子どもの頃(昭和三〇年代)泳いだと友人に聞いています。やがて、変形した魚が見つかるようになった。宮野にあったクリーニング、ここの排水が問題になって、警察沙汰にまでなりました。一〇センチぐらいあるハエの背骨が曲ったんです。ここでは病院のシーツなんかを洗っていて、一般のものはしていなかったんでちょっとすぐには分からなかったんです。業者にも生活の権利があるので、警察でないと手がつけられなかったんです。このクリーニングは宮野から撤退して小郡の方に行きました。たぶん、病院用の消毒剤のせいじゃないかと思いました。ハエという魚は一年で二から三センチにしかならんですから、一〇センチもあるのは二年もの、三年ものです。なかなか因果関係の立証が難しいので、四、五年監視を続けて、そこへハエを見に行きました。

椹野川のきれいさ
 発育奇形の問題が起こった時すぐにクリーニング屋とわかったのは、椹野川には工場排水が流れてきていないから、そういう問題は起きていないはずということで探したのです。椹野川はそういう川です。
 昭和二六年に椹野川の河口でバケツ一杯にアサリを採るのにわけなかったんです。それが今ものすごく減っています。理由は、クルマエビの養殖を始めて、アサリを餌にしたからです。アサリをミンチにして使ったのでいなくなりました。今ごろ放流してみたり、馬鹿なことよと思います。
 ハマグリもようけおったのに、ハマグリは少し沖にしかいないです。「豊かな海づくり」の大会の時に小野田沖では一〇メートルも潜水して大きいアサリを採れたりしていました。

川がよごれてきた
 今の川は、河原がだんだんなくなってきています。柳の木が流れてきて浅瀬で止まると、そこに根を下ろして、その柳の木が直径二〇センチになるのに何年もかかりません。そういうようにして河原が減っているんですが、これは、川の栄養分が増えているためです。
 今は、昔のように田の肥料に濃い薄いがなくて、肥料のやり方が変ってきました。それで、稲を刈った後の田にもたいてい肥料が残っています。その栄養分が雨ですぐに川へ流れてきます。
 また、昔は簡単な浄化槽だったので、し尿が川へ流れてきていましたが、これは良くなるでしょう。工業用は除いて、家庭用のし尿は来年から合併処理をしなければならなくなりますから。ただ、その自己負担が出せるかどうか。椹野川は公共下水道が今、宮野まで入りよるし、仁保は農業下水道がはいって川の水はきれいになっていくはずです。
 日本人の食生活が変ってきた。以前は洗いものは石鹸だったが、ちかごろは化学繊維が主になってそれを合成洗剤で洗います。だから井堰の下では風で飛ぶくらいの高い泡がたちよった。
 あれもこれも複合して、川の水質が悪くなったんです。漁権者の立場で言えば、アユの餌は石に生えるケイ藻類です。ところが、川に汚れが流れてくると、ケイ藻の上に何やらついて、ケイ藻の繁殖が悪くなります。するとアユは太りません。魚でも牛や豚と同じことです。いい餌がなければ太りません。私が漁協に入った昭和三二年ごろと今では椹野川のアユの太りかたが違います。それは刺し網にかかるアユを見ればわかります。椹野川のアユの太りは錦川より悪いです。一〇月を過ぎたら、アユは落ちアユになりますが、錦川ではひとつ四〇〇グラムになるものも捕れますが、この川は二〇〇から三〇〇グラムまでです。私らがとって二五〇グラムぐらいのものがせいぜいですね。

今は雨が降ると川がいやな感じ
 昔は、雨が降って水が増えて濁ってくるのに時間がかかった。今はすぐに出てきます。昭和三〇年代から、二時間ちがう。今は黒い濁り方がまず来ます。道路がアスファルト舗装になって、車のタイヤくずが、流れて川に入ると川が真っ黒に濁ります。川へりに草があれば濾過できるんですが、今は水を抱くものがなくなっていますね。田んぼが減ってアスファルト舗装になったので、流れて黒く濁る。雨の降り始めはまず黒い水が川に流れてきます。増水し始めの水はなんとも言えんいやな感じがするんです。そのあと田んぼの水が茶色く川に出てくるころにはもういやな感じがしません。洪水の色はいやな感じではないんです。

昭和三〇年ごろの川にはもどせない理由
 しかし、川は、昭和三〇年ごろの状態にはどんなにしてもならんだろうと思います。それは、公共下水道が整備されると逆に、川の水は減るからです。
 小郡の椹野川左岸、淋光井堰の左岸に公共下水道の出口があります。ここの出てくる量は少々でないですよ。今の家庭雑排水を川へいきなり戻したら汚くてダメだから、下水処理をします。処理水をまとめて下流の淋光堰のところに出すので、それより上流の川の水が減っています。旧二六二号線から吉敷川の出口まで水はきれいになったけど、水量が減りました。公共下水道が整備されると川の水が減ってくる。雨の量は変っていないのに川の水の量は減っています。それとダムができたこともあります。これが魚にとっていいことなのか?今では、水が減って「吉敷川の水はおしろい臭い」なんという人さえあります。

漁業者が川を守ってきた
 漁業組合活動をしてきて思う。川はきれいにせんといけん。「漁協があるから川がきれいになる」と思います。漁業権のない川は汚い。川、三隅川などの河口は汚いです。川に捨てたものが流れてきて川に溜まるので汚いです。
 自分が川の漁業の組合活動をしてきて思うのは、川をきれいにせんといけん、ということです。人間生きていくのに水は不可欠。ほとんどの人は川からの水を飲んでいます。河川法に「環境」という観点がはいったのが一九九八年とは、あまりにも遅かったと思っとります。川の環境を守るという目的はいいが、漁協のやり方は独善的だ、という批判を受けることもあります。しかし、漁業権の設定されていない川は、ものすごい汚いですよ。例えば有帆川、三隅川。ウナギの遡上の状況を調べてまわった時に見ましたが、河口ほどきたないんですよ。漁業権があることで、川がきれいに保たれているという面をぜひ知っていただいて、河川管理者は上手に漁業権者を使って川を護らせた方がいいと思います。

どんなダムもよくない
 どんなダムも絶対良くない。これが私の立場です。一の坂ダムができて渇水になることは減りましたが。ダムがないころは、年に二回か三回、大水が出て川の掃除をしてくれていたわけです。これが自然のあり方だったのに、人間がそれと変ったことをすると、何かと弊害が出てきます。

明らかに川に毒が流れ出る時でも、一人で反対するわけにいかんわな
 松枯れの空中散布をやる時は必ず山口市が組合へ言ってきます。必ず組合に同意を得にくる。できることなら、川を汚すようなことはさせたくない。しかし、絶対やらさんということもできん。「空散」をどうするかを決める委員会があって、委員に漁業組合を引っ張り込んでおいてやるんです。会議というものは他の人は賛成するのに一人で反対するわけにはいかんわな。それで、私が組合長の間は、「委員になってくれ」といわれても「ならん」といいました。根性悪かったからね。
 建設省の「魚ののぼりやすい川づくり」委員会とかいうのの委員になったときは、一杯飲まされて「あんたの言うことを聞くから、頼む」というので、引き受けました。これで、魚道がどんどんついて、アユの上れる川になると思ったんです。せめて三年から五年かけて検討するか、と思ったら二年でまとめさせられました。そして、魚道を付けるのは、実際に将来工事をするときに、ということで逃げられてしまいました。

学者の現実離れ
 山大のF先生とはずいぶんやりあいました。この先生は、自分が調べたらこうだった、というて県の人をとっちめるんです。しかし、私に言わせれば、調査した時の川の状態はたまたまそうであったのであって、いつもその状態と同じということはないです。条件は変わるんだ、といつもそれで衝突しました。私は彼が講師だった時から知っとるから、「先生のやっていることは、現実とかけ離れている」と言うてやるんですよ。例えば、魚道を造ったが、これは何点満点のできか、という話になった時、F先生は七〇点とか言いましたが、私は「一〇〇点」と言いました。なぜなら井堰の下にはひとつも魚がおらんようになったからです。魚が一〇〇パーセント登ったのだから、一〇〇点です。私らは、川に付いているから、あんなことを言われたら反発しますよ。
 それなのに、官庁では大学教授というだけでありがたがるし、教授がはんこをつけばそれで通ってしまうんです。例えば、荒谷ダムが出来るとき、調査させろ、といわれたから、交渉のためだったら、させない、と返事をしました。そうしたら、それでもいいということで、大学の先生に調査を依頼しました。わずかの調査で二六〇万円ももろうておるよ。学生のアルバイト代になるわけですよ。

教育の大切さ
 教育というもんは大事です。私の所には、昭和一八年に召集令状がきました。「くるもんが来たか、死んでくるんだなぁ」という感じでした。全然抵抗もなにも感じませんでした。友人も「君も来たか」というような反応で、そういうことに抵抗を感じない教育を受けていたわけです。戦争に行って死んでくるのが親孝行でした。昭和二〇年八月二四、二五日ごろ終戦を知りました。八月三〇日に広島駅を通りました。ホームから皆見えました。「おー広島やられとるのぉ、ひどいのぉ。何かいな」としか知らんかったです。反対側の山の方はぜんぶ茶色に焦げとったです。そういう運命に国民を導いてしまうような結果も、あやまった教育からもたらされたものじゃないでしょうか。

川こそわが人生
 私は、自分の人生は川やから……と思っています。ほかのことは、全然考えていません。他の人が「川が好き」とか「川を愛している」とか言うのを聞くと、お世辞言うな、という気持ちになります。私は、昭和三二年から川以外の仕事をやったことがありません。漁師としての自信をもって、川を守るようにどんなにしても通してきましたし、通します。
 まず、椹野川漁協の理事三年、副組合長二年、あとは組合長として合計一八年、そのあと連合会の会長になって三年、正味二〇年ですね。私が組合長になるのを承認したのは、専務理事をおけ、という条件で引き受けたんです。そして、選挙で落とされる前に、自分から止めました。これでお役ご免かと思っていたら、また山口県内水面漁業組合連合会の会長という仕事が回ってきたんです。
 本当は、私はトップになるのがすきじゃないんです。上から二番か三番の立場でやりたいんですよ。だって、トップになってしくじったら、何もできんでしょう。
 平成四年には、黄綬褒章をもらいました。園遊会にも招待されました。お祝いはもろうたものの大事でした。仕事に専念した人がもらうものですが、これまで琵琶湖でもろうた人はあるけれど、川専門の人がもらうのは珍しいと書かれました。
 公共下水道も、仁保の集落排水事業も、川に流す排水は、BOD(生物酸素要求量)1ppm(注、1リットルあたり酸素1ミリグラム以下)をクリアすること、ということで協定を結びました。わずかな水の汚れは、お茶に入れたときによくわかります。鉄瓶でわかした水がおいしいかどうか。鉄瓶も長く使えば、やがて銹も出んくらいになりますよ。
 「私(高石)の顔知らんような者は土建屋ではない」と言われました。土木工事で川の水が濁ったら直ちにとんでいって、発注者に私はかみつきます。県庁や市役所にも行きます。川を濁らした時にそれに困った人を納得させないでいいのか。話し合いをして納得してもらうことが大事です。
 椹野川漁協が現在あるのは、もろうた補償金を直接組合に入れて、組合員にわけなかったからです。私自身も私腹をこやすようなことをするのは大嫌いですから。
 椹野川の漁協まつりというのを毎年九月の第一日曜にやっています。この時アユのつかみ取りをやります。つかみ取りの目的は、川の水をきれいに、川の環境をよくしましょうという、そういうお祭です。始めは有料でやっていましたが、私が組合長になってからは、ただにしました。

川のこれからのありかた
 河川改修をするなら、私らの立場で言えば、石垣とか土のうみたいな自然のものが川には一番いいです。もちろん、流域住民の生命財産を守るのが一番ですから、その範囲内でできるだけ自然のものをということです。堤防は強固でなければならないのだけれど、単に頑丈なだけではいけない時代になってきました。
 去年、吉野川がいい川と聞いているので見に行きました。さすが、金がかかっとるのお、全部石垣です。川底にも石を敷いて落差をつけてありました。徳島県の仕事でしたが、みごとな工事でした。しかし、なんであの川にあれだけの金をかけたのかは、わかりませんでした。しかも、アユを放流すればいいと思うのに、そうしていないんです。せっかくのいい工事ですから活用しないとね……。
 今は川の堤防の断面だけ見てこういう形がいいと、議論されていますね。それではいけない、と五、六年前から痛切に思います。例えば、仁保川の上流の上郷の方はみなコンクリート・ブロックです。ここにアユを放してやっても、池で育ったアユは自然遡上したアユでないので、強い流れに逆らって泳ぐことを知らんのです。自然に対する構えが弱いんです。すると、洪水の時にコンクリート・ブロックだけだと魚が流されてしまうんです。小さい遊水池でもいいし、ちょっとした魚礁的な構造物とか、普段は陸上に出ていてもかまいませんから、そういうものを工夫してもらう必要があります。しかし、なかなか役人は頭を切り換えきらんかもしれません。錦川では川べりに木が生えていて、洪水の時には魚が隠れられるんです。一の坂川を改修した時は、もっと桜を植えたらどうか、と提案したんですが、それでは岸が弱くなるからいけない、という返事でした。強いコンクリートにしたら、文化庁にしかられて、全部やり変えることになりました。コンクリートブロックを壊して、萩の笠山から石をもってきて石工に石を築(つ)いてもらった。川の中へは丸太を打って、あれは莫大高うついとるですよ。治水強度の面からは水がはけるからようないかもしれませんが、石垣やったからホタルが増えたんです。ところが、川に残飯が流れるようになってホタルの餌のニナが死にました。
 昭和二六年に山口に来たころはホタルがすごかったです。一の坂川にはたまげました。たくさんいて、「このホタルは何で生きとっか」と思ったです。椹野川の秋穂渡瀬の橋は、上にも下にもすごかった。それが一番減ったのは昭和三〇年代半ばごろ。除草剤が出たころです。ニナが薬で死んでホタルの餌がなくなったんです。
 昭和三〇年代の始めごろは竿で釣る時に、川底をころがすと釣り針にかかってやれんぐらいニナがおったんです。これは、針を四、五段つけて、上に重りを付けてひっぱると、川底を重りがころころ舞うんです。後ろの糸が舞うとそれにアユがかかるというしかけです。ところが、一の坂川の工事が出来上がった時、土木事務所からニナを買うから捕ってくれんかという話が漁協にありました。でも、あれほどおったニナが、もう持って行くほどは捕れんかったです。

川はいのち
 これからの川。それは元に戻るのが一番いいです。世界がそうなります。川はこれから元に戻るような形に守ってもらいたい。
 椹野川は飲料水だから川を悪くすることは、自分に唾をはいて、自分で受けるという形になる。
 若い人は川は大事にしてもらいたい。川を汚して、跳ね返ってくる何の利益があるか。川を汚して、返ってくる得なものがあるか。
 水は人間のいのちやから。

 川のことを私に聞いてくれるのがうれしいです。何のお礼もいりません。文句いうてくれても、川の話ならそれでもうれしいんです。川の話ならいつでも呼んでください。話をしにきますよ。





ふしの川清流の会