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やまぐち市ごみ処分場問題)「源流を守る」原点を語る講義録から

2005/11/01(火)



これは、安渓遊地編『やまぐちは日本一――山・川・海のことづて』(弦書房、2003年)に収録した講義録の抜粋です。「源流を守る会」のとりくみの意義がよくわかるものです。

源流を守る                        山口市仁保・吉広利夫さんの講義から


講師紹介
 吉広利夫(よしひろ・としお)さんは、安渓の住む山口市仁保地区の「青年部」の仲間で、「としちゃん」と呼ばれています。「近代的いなか社会」をめざす努力が実って「村づくり日本一」に輝いた仁保(にほ)地区のさまざまな取り組みについて、そこに至る自分史から語っていただきました。二〇〇二年五月十日の「地域問題」の授業です。

仁保地区の紹介
 今日は、みなさんが現在飲んでおられる水の源流を守るとりくみについて話してくれ、ということでまいりました。自分は現在農協職員で、自宅でも農業に取り組んでいます。
 これからご紹介する仁保地区は、人口約四千人、千世帯です。耕地面積が五百ヘクタールをちょっと越えるぐらいありますが、全地区面積の九割は山です。山口市内を流れて瀬戸内海に注ぐ椹野(ふしの)川の一番上流部にあたります。
 仁保地区にはいろいろなものがあります。日本で二か所しかない国際電話の巨大パラボラアンテナ群とか、昨年できたばかりの道の駅とか。五月の連休には、一万数千人の方が毎日のようにいらっしゃいました。普通の道の駅としては、最高ににぎわった例ではないかと思います。どういう建物がいいかも、地元に建設委員会というものができて検討しました。メンバーの一人として、自分は音楽が好きだから、二階でコンサートができる構造にしてほしい、と言いましたら、そんな建物は二十五億円ほどかかるということで、あっさり断られました。でも、結果的に二階はできて、そこが研修室になりました。そういうことで、建設省の予算でしたが、地元の意見がわりと通った方だろう、と思っております。

就農したわけ
 なぜ農業をやりだしたか、まず、そのへんをお話しましょう。
 若い頃からの趣味が電気でしたから、高校を出てすぐ自動車の電気関係の会社に入って、七年勤めました。勉強がきらいでしたから大学はさけて通ろう¥と思ったんです。そのまま仕事をしておれば、楽に食べて行けたんでしょうが、あえて、農業をやりだしたわけです。
 会社の仕事をしていますと夜はいつも遅く、自宅には寝に帰るだけ。仁保に住んでいながらまわりのことが全然わからないんです。将来を考えるにあたって、こういう浮き草ではいけないな、と思ってはいました。
 ある真夏の夜、青年団に顔を出したことがあります。そこで、「ああ、地元には大変すばらしい仲間がおるんだな」と気づいたんです。もともと祭りが大好きな人間です。人とがやがやとにぎやかにすごすのが嬉しいんです。約三十年前のことです。
 それで決心して電気の仕事をやめて地元で農業をすることにしたんです。当時、わが家では米を少しと苺、花の栽培をしていました。ところが、電気からいきなり農業でしょう、失敗の連続でした。なんとか一人前に食べれるようになるまでにかなりかかりました。
 その中で、自分の人生を変える出来事がありました。

中国訪問の衝撃
 一九七六年、「青年の船」に乗る機会がありました。約四百名の人々と中国に行きました。まだ国交が樹立されていない時でした。一番びっくりしたのは、あまりに広く、人口が多いということですね。仁保と比べたらそれは天と地ほどちがいます。
 天津から北京へ特別列車で走ったんですが、たいへんな勢いで農業に取り組んでいて、これは日本の農業に将来大きな影響があるな、と読めたんです。結局、農業中心に二週間かけて見てきました。当時日本への農産物は、アメリカやカナダから入ってきていましたが、近いうちに物価が安く賃金も安い中国からどんどん入ってくる時代がやがて来るだろうと予測できました。
 この時に、いち早く中国との貿易という商売を起こす道ももちろんあったと思います。うまくすれば大もうけできたかもしれない。でも、自分としては、日本の農業の危機を感じましたから、帰ってすぐにそれまでの自分の農業の見直しを始めました。それまで農薬や化学肥料をどんどん使って収量を上げる農業をめざしていたんですが、「これではいけない。一番大切な『農業の原点』に帰ろう。」と思いました。原点というのは、「命を育むものとして食べてもらうものを作る。」その価値を根本から見直すということです。

農協も変わる
 ところが、当時の農協は、農薬や化学肥料をたくさん使ってもうけをあげるという風潮の全盛期にありました。だから、農協に行くと、いつもけんかです。
 いろいろ手探りをする中で、「土を健康にすることによって、作物も健康になるはずだ。まず土づくりだ。」ということに気づきました。一九八一年には有機農業研究会を仁保地区に結成して本格的に活動を始めました。
 そういう取り組みを重ねるうちに、こんどは、農協が私を認知してくれるようになりました。一九九三年、わたしは末永組合長に請われて仁保農協に勤めることになりました。時代が変わったことは、自分でも驚きでありました。仁保農協の方針で「有機の里づくり運動」を進めることになり、育苗センターに勤め始めました。そして仁保農協と生協の間で野菜の産地直送を進めてきました。その中で、減農薬、有機質肥料の栽培の促進をはかってきました。今はJA山口中央に合併しましたが、かつての独立農協時代のキャッチフレーズは「安心を村から町へはこぶ里」でした。

不耕起栽培に挑戦
 無農薬にすることは、いっぺんでは大変です。変更してしばらくは収量も安定しません。この不安定な時期の収入の保障がありません。生協との野菜の産直では、普通の農薬散布量の半分以下に抑えるということで契約しています。最近では無農薬もかなり増えました。
 自分が現在試みている農法は、野菜の不耕起疎植栽培です。うねを一度つくったら、全然耕さないんです。うね幅も広くして、野菜をのびのびと育てる。そういうことを提案しています。ナスでも、二メートル以上の間隔で植えてください。そうしたら、高さ二メートルにも育って、はしごをかけて収穫するようになります。
 いま農林水産省などが言っている「環境保全型農業」がありますが、それをもっともっと越えて「環境改善型農業」をめざしたい、と思っています。農業をすることで例えば川がうんときれいになるとか、さまざまな生き物が戻ってくるとか、そういうことを最終的な目標にしているんです。不耕起ということは、トラクターとか耕耘機を使わない、その分の石油燃料もいらない、無駄なエネルギーを使わない農法です。それができるだけの技術もこのごろやっとできてきたかな、と思っています。

自然界をよく観察してまねる
 原油には限りがあります。次の世代には何を使うのか。それよりも、自然から学ぼう、と思います。自然界の中には耕してもらって作物ができる、ということがありません。野菜なり稲なりをつくるために耕すんですけれど、これは、人間が数千年前から少しずつやりだしたことなんです。戦後、ロータリー耕耘が始まったので、あんなに激しく耕すようになったのは、最近のことです。私は、耕さないでできるんじゃないだろうか、と十数年前に思いました。やり方を変えれば充分できますし、実証しています。作物が肥料のある所まで根を伸ばすことができるまでの期間は成績は悪いですけど、不耕起の方が途中から生育がよくなるんです。
 雑草は耕すのでなく、刈り取るんです。そして堆肥をつくって、土づくりのために、うねをしっかり覆うんです。これをマルチングといいます。続けていくうちに雑草も交代してきてそんなに大変でもなくなってきます。自然界では、植物は自分の葉っぱを落としながら土地を肥やしていきます。その仕組みとまったく同じです。自然界をよく観察して、そのいいところを人間が真似をする、ということなんです。
 それから、単一の作物だけの畑だと、害虫が出て来るんです。自然の山はいろんな植物がある雑木林でしょう。その真似をして混植すれば、害虫が大発生しません。最近では混植のことをコンパニオンプランツの活用なんて、かっこうをつけたりしますが。
 堆肥の話をし始めると、一晩でも話しますから、今日は深入りしません。堆肥マルチをされる場合は、いい堆肥である必要はありません。未熟な堆肥でいいです。なぜかというと、土の表面に一番たくさん微生物がおります。木の杭を打つと、まっ先に腐るのは地表の部分です。ここに有機物を分解する能力をもった菌がたくさんおるわけです。落ち葉を取られた木にはかわいそうですけど、山の落ち葉をもってきて覆ってもいいんです。土の表面で分解されます。ただ、畜産廃棄物になっている糞尿処理の堆肥だったら問題があります。窒素分が多すぎて、害虫を非常に増やす原因になるからです。
 こういう経験も踏まえて、農家むけの講義もだいぶしてきました。ところが、みなさんは、耕すのが当たり前と思っておられて、耕さない農業なんて絶対に否定なさいます。なかなか普及しません。一、二回は耕さずにやってみられても、やっぱり年に一回とか二回は耕してしまわれます。習慣を覆すのは難しいですね。
 不耕起栽培をする場合、一度うねをたてたらまわりにあるものを集めて、草を刈っているだけでいいんです。一輪車とスコップ、鎌、三角ぐわがあればできます。ご自分の家にちょっとでも土地がありましたら、まずは試してみてください。

村づくり塾の活動
 村づくり塾では、山口市の商店街のひとつの中市というところと、「まちむら交流」をしています。山口市は中心部といえどもそれが町とは、私はけっして思っていません。自分の村とそんなに変わらない田舎だとおもっています。だから、もっと大都会との交流も考えましたが、地元を飛び越してはご無礼になるというので、同じ市内から始めたわけです。商店街の人が来て田を植えて、その収穫したお米を商店街のえびす様にさしあげる、「えびす交流田」とか、大かぼちゃを作ってハローウィンのランタンづくりとかいろいろありますよ。
 他のいい事例を参考にしようという考えで、毎年講演会を組んでいますが、昨年はちょっと変えました。KDDIが大パラボラのひとつを国立天文台に電波望遠鏡として譲渡しました。それじゃあ、仁保と宇宙の関係を知ろうというので、山口大学の三浦先生に来ていただいて、四回シリーズで講演会をもちました。
 「成人式前夜祭」というのもやります。新成人に飲み会の場を提供します。実際は、飲み過ぎた場合も配慮して「前前夜祭」としてやっています。まず、壁全体にアルミ箔のポリフィルムを張って、安物のディスコ風に仕上げるんです(笑い)。最高のオーディオ機器をセットして、そこでどんどん大きい音を出してみなさんをびっくりさせる。それと同時にステージ一面に、絵を描いてそれがブラックライトで光って浮かび上がるようにします。今年は宇宙を描きました。これには、若いみなさんも、ひるんでしまって、入るのをためらうところがあります。それを後ろの方から喜んで見ているという……悪趣味です(笑い)。これは、もう二十年近くやっていますが、新成人が毎年びっくりしてくれるので、楽しみです。

日本一の村づくり
 遊んでいるようで、遊んでばかりじゃない。こういうサークルを作ったのは、なぜだったか。村づくり塾も加わっている仁保地域開発協議会は、昨年、農林水産省の「第四十回農林水産祭むらづくり部門」で、最高位の天皇杯をいただきました。日本一の村づくりということで表彰されました。仁保は、そういうすばらしい地区であると思っています。
 「近代的いなか社会」をめざす。これが一九七一年に策定された仁保のテーマです。田舎の良さを残しつつ近代化をはかるという考え方です。自然環境を維持しながら、最先端のものも賢く取り入れて住み良い生活環境に改善する。しかし、いなかの古き良き人情はそのまま継続させたいという思いです。先輩たちが団結して取り組んできた歴史があります。
 三十年前には、いい道もないし、川も改善されておりませんでした。だから、あっちこっちが氾濫したりしていました。そういうことも含めて、住み良い村を、ということで進めてきました。道路も下水道も完備されましたが、心だけは隣同志が助け合う、いなかのままでいたい。 そんなすばらしい地区なのに、実をいうと後継者がおりません。その後継者集団を組み立てようとひそかに思っていて、それで作ったのが「村づくり塾」でした。もっともっと魅力ある仁保にしよう、ということで、自分たちがやっています。活力ある仁保を、ということで、自分たちの村を本当に愛しているメンバーを集めています。だから、本当はもっと勉強したい、という目標があります。ところが、集めてみると、勉強を主体にするとメンバーが誰も来んようになるんですね(笑い)。だから、遊びが主体で、勉強はちょっと、という形で今ではやっております。

「仁保モンロー主義」
 仁保には、「仁保モンロー」といわれる方式があります。みなさんが、地元に帰って活動される時に、参考になさってください。
 例えば、生活を便利にしようというので、道を広くするときに、県道にしろ市道にしろ一番弱るのは用地買収です。これをやってのけたら仕事の八割はできたも同然と、当事者の方は見ています。それを、地元でやってあげようじゃないか、という方式です。これは、道の幅を広げたり、道の駅を作ったりする時に、田んぼや山が削られます。その土地の値段や正確な面積が決まる前に、私たちにまかせて下さいという形で白紙委任状を書いてもらい、印鑑証明もつけてもらうという方式を取ってきました。この計画に完全に賛成であります、いくら土地を取られてもいいです、ということを示してもらう、ということです。そういうような準備をして例えば県に工事をしてください、と言いに行けば、予算がついていれば、すぐにやってくれます。なぜかということ、これほど簡単なことはないからです。用地買収がもう済んだと同じなんですから。
 こういう方式を「仁保モンロー」と私たちは、言っています。モンローは女優さんではないんですよ。アメリカの五代目の大統領です。要は、自分でやれるところは、自分でやろうとする心構え。仁保地区で起きた問題は、仁保の中でやれるところまでやろう、そういう取り組み方です。他人まかせでなく、自分たちでできることを一生懸命やろう、と努力するんです。その姿が多くのみなさんの気持ちを動かす、というふうになるんですね。
 今日お話しする、椹野川の源流を守る会のとりくみにも、こうした伝統が大きな力を与えてくれたんです。

多数派を必ずしも優先しない
 ――(安渓)山口市仁保地区というより、独立した仁保村の雰囲気を残していますよね。それと、植民地になるようなことを認めない、というのも仁保の智恵です。例えば大きな団地を建てさせてくれ、という希望が来たら断るんですよ。ばらばらに村に入るのはいい。多数派として少数派のあなたがたを大事にしてあげよう。でも、町の人達の大きな集団ができたら、そこはきっとその人たちが主導権を握るようになるだろう、もともといる地の者が差別的な扱いを受ける危険性もある。道を拡げるにしても、もっとも条件の悪い僻地の村から手を着けていくんです。そうしないと、すでに便利なところをもっとよくすると、奥の過疎化に拍車をかけてしまいます。ものごとの順序を、村の中の論理で考え、多数派を優先しない、というそういう発想法が仁保の底力の一つだと私は思っています。
 ヤツデの葉のように農地が延びておる、その葉の先から圃場整備をやろう、ととりくんできて今では約九十二%ぐらいが済んでいます。いつでも宅地に転用できる中心部が主として残ったわけです。これは、普通と逆の順序でした。みなさんの気持ちの中で、効果が上がるんです。「あの不便で難工事の奥で圃場整備ができたのなら、うちでも当然できる。」と思われるわけです。二〇〇二年の四月に全戸の集落排水事業が完成して水洗便所になりました。山を越えて配管を回さなければならないところでそれが実現できた、というのもすごいことと思います。

人間は侵略者
 美しい仁保川ですが、その最上流部のひとつを越えた徳地町枡谷(ますだに)地区に建築廃材などが積み上げられたところがあります。自分も、そこに行きまして、奥にも入ろうとしましたが、入れてもらえませんでした。かなりやばいものが棄てられているんじゃないか、と想像しています。その水は、椹野川には直接は流れませんが、佐波川に流れ込みます。
 危ない、というか、自分たちが棄てられないものを川の上流にもってくる、ということはどうでしょうか。一番上に捨てれば、そこから出る汚水は、下へ下へと流れることになりますから。どこで処理をしたらいいんでしょうか……。一番大事なのは、そういうものを人間が作らないことだろう、と思うんです。
 強く思うことは、「自然界から見れば人間は侵略者」ということです。地球のいちばん居って欲しくないもの、それが人間だろう、と思っています。そのことをいつも胸において、自分は農業部門でどうしたらいいか、そのことを今、考え続けております。もっと自然と共存できる人間でありたい、ということです。一番大事なことをどうも見捨ててきたんではないか、と思います。

椹野川の源流を守る運動
 二〇〇〇年の暮れ、十二月の始めだったと思います。突然仁保に大変なニュースが飛び込んできました。
 仁保の一番上の野谷峠(のたにとうげ)という所に産業廃棄物処分場ができるかもしれない、というんです。ここは等高線にそって県道があり、道の下は深さ百メートルはあろうかという深い谷になっています。そこに産業廃棄物を捨てれば、それこそいくらでも入るんです。そういう、捨てる側としては条件のいいところが仁保にあったわけです。産業廃棄物の業者が土地を売ってくれとか、貸してくれとか言って農家を責めだした、という情報が飛び込んできました。その業者は、先ほど申し上げたところにたくさんのものを捨てている同じ業者でしたから、これは大変だ、ということになりました。山口県だけでなく、九州の産業廃棄物も集めてくる業者ですから。
 仁保地区では、別の峠を越えた隣の徳地町の枡谷地区まで行って耕作する出作ということをしていました。二十五年ぐらい前ですが、その枡谷地区で苦い経験をしています。地元のみなさんが、廃棄物処理業者の口車に乗って売ってしまったんです。仁保とは同じ自治体でないので情報が来るのも遅かったということがありますが、売ってしまったあと、いろいろ運動してみてもダメでした。以前の苦い経験のおかげで、知らせを聞いてすぐに動きだせたわけです。
 さっそく、仁保地域開発協議会が開催されました。これは、自治会を主体に、市会議員等も入っていますが、自分も入っています。さっそくその場所に実際に行ってみました。何度も会議がもたれました。若いメンバーも入ってくれということで、自分より若いメンバーも入れながら議論しました。
 その中で土地を買い取るトラスト運動を起こそう、とはじめは考えました。しかし、町の人達に土地を渡してしまうのも問題があるというので、募金運動に切り替えることにしました。目標額は三ヘクタール買い取りとして一千万円。自分たちとしては、かなり高めにおいた目標でした。仁保地区の皆さんの力だけでは、とてもじゃないですが一千万は集まりません。
 まず、地権者から白紙委任状をいただきました。そのうえで「椹野川の源流を守る会」という形にして、会長は生協の理事長さんにお願いしました。みなさんの飲んでいらっしゃる水を守る、ということです。実をいうと、山口市の水道は、大内御堀(みほり)地区の井戸から取っているんですが、その井戸は、椹野川の上流の仁保川のすぐそばにあるわけです。その実態を知られれば、これは大変だ、とすぐ気づかれることなんです。それで、流域の一市二町(山口市・小郡町・秋穂町)の住民を巻き込んでスタートしました。
 みなさんに、自分たちの思いをどう伝えていくか、それも方法論になりますが、実際は、六か月で、千三百万円集まりました(拍手)。その募金を山口市に寄付しまして、四ヘクタールあまりの土地を市に買ってもらったわけです。それが、源流を守るという目的にあう水源涵養林として、例えば源流公園といった形にすることで、現在は山口市の中で話が進んで、川をきれいにするボランティアでもらえる地域通貨「フシノ」の実験もぼちぼち始まっています。
同じ水を飲んでいるものは、みんな運命共同体だよ、ということを踏まえて実際にやってのけたということで、仁保は村づくり日本一に輝いたのだと思います。

受講生との質疑応答
 ――学生ではないんですが、お話をきいて、仁保ではすごいことができていることに感動しました。なぜそこまでできるんでしょうか?
 一足とびにはできないことと思います。仁保では絶対に裏金が動いていません。汚い金は絶対にもらわないという誇りがあります。それを地域のみなさんがよくご存じで、世話人を信頼し、応援してくださるという地区です。これは、今の政治家のみなさんに聞かせてやりたいです。いちばん当たり前でいちばん尊いことだろうと思います。こんな清い地区はないんじゃないだろうか、と思っています。自分はそんな地域の先輩のみなさんに惚れたんです。
 ――環境デザイン学科の学生です。実際今の社会で、農業をやっていったら、日本は土地も狭いし、外国から安い農産物も入ってくるのに、やっていけるのでしょうか?
 これは、直接的なお答えにはなりませんが、価値観から変えなければなりません。今の日本は、お金が一番優先される金権主義ですね。給料でも、なるべくならたくさんもらいたい。そういう考えが優先して、ひとつの手段であったはずのものがすべてを動かしている。さきほどの政治家の問題もそうですね。この世の中が変わらなくちゃいけない。いくら金があっても、人間が住めない地球になったのでは意味がありません。自然を守ろう、ということを大きい声でいう人間が増えていくことで、金権主義が改まるというのがやはり目標になります。
 自分は、地域に根ざした人間でありたい、地域に根ざした農業をしたい、と願い続けています。自分の不耕起栽培はまだまだよちよち歩きですが、自然をもっともっと観察して、自然との調和をはかる。そうしないともう人間は暮らしていけないだろうと考えて行動しています(拍手)。 

参考資料・末永昌巳、一九九三『むらからの便り――ある農協の試み』葦書房・道の駅「仁保の郷」(http://www.google.co.jpで、山口市仁保を検索).





ふしの川清流の会