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仁保の水害と土砂崩れの歴史

2005/11/18(金)



昭和47年災害時の並山

 昭和26年の水害は、一貫野で死者を出しています。
 また、昭和47年の水害では、県道に沿って一貫野の下手にある並山が壊滅的な土石流に襲われ、その下の原河内では死者がでました。
 
 昭和26年の水害は、戦争中に宇部の炭坑の坑木とするために、大量の松を切り出したあと、戦後6年目にその根が腐って土砂をつかむ力が失われた時に豪雨が襲ったと、その被害を目撃した宮内秀門さんは語っていました。

 数年前から大規模な松枯れが仁保では進行中です。広葉樹がそれなりに茂っているところではそうでもないのですが、松がぎっしり生えていたところでは、災害の危険はそれなりに大きいといわなければなりません。
 そういう災害に遭いやすい土質の所に、ごみの最終処分場を設置することは、よくよく注意しなければならないことと思われます。

 仁保の郷土史編纂委員会、1987『仁保の郷土史』仁保の郷土史刊行会発行、によって、1951年と1972年の2度の大水害をふりかえっておきましょう。

 写真は、渓流再発見 椹野川ウォッチング(山口県発行)から拝借しました。(この項は、安渓遊地執筆)

昭和二十六年の大水害
 昭和二十六年七月一日から二日にかけてのケイト台風につづき、七月七日から十七日にかけての熱帯性低気圧に伴う大雨、なかでも七月十日の大雨は県下に四〇〇ミリないし七〇〇ミリの大雨を降らせ、県下各地に大被害を与えた。当地区では六十年ぶりの大雨といわれた。
 被害状況をみると、死者三人、住宅流失三戸、半壊八戸、浸水床上一三戸、床下一三七戸、畑流失埋没一二二町歩、冠水一三八町歩、畑流失埋没七町歩、冠水五町歩、道路決壊五〇ヵ所、橋梁流失一八ヵ所、堤防決壊二〇ヵ所となっている。
 村会が直ちに招集され、とりあえず見舞金二〇万円、応急費として一〇〇万円を支出し、さらに村会で二、〇五六万五、○○○円を計上し、本格的復旧工事に入った。主として仁保川本流を中心に河川の拡幅、堤防の嵩上げ工事が行われ、河川の形態は全く変容し、現代的河川の姿に生まれかわった。
 この大改修工事のおかげで、昭和三十二年七月、四〇〇ミリにおよぶ大洪水で県下各地に被害が続出し、近くでは小鯖地区が大被害を受ける惨事となったが、仁保地区は被害を最小限に食い止めることができた。

昭和四十七年の大水害
 昭和四十七年七月九日から十六日にかけ連続して雨が降りつづき、十六日午後六時、県下の累計降雨量は四二九ミリに達した。なかでも山口地方は十一日夜半から翌朝にかけ豪雨となり、一時間に五十・五ミリというものすごい集中豪雨となった。山口市宮島町象頭山、配水池の山崩れもこのときである。とりわけ仁保地区は、十一日午後九時四〇分から午後一〇時四〇分の一時間に六一ミリの集中豪雨をみるに至った。
 十二日午前六時三〇分、山口県警察本部は特別警ら隊東部地区隊に対し、仁保地区の孤立者の救助に出動せよと命令を下した。孤立している場所は仁保原河内地区並山で、二世帯八人が氾濫した川のため孤立し、道路は寸断されていた。地区隊が現場に着いてみると、孤立した二軒のうち一軒はすでに川岸がけずりとられて崩れており、残りの一軒も濁流にのまれようとしていた。そこでレインジャー部隊は杭打ち、救命索の投射等、曲芸とも思われる活躍でようやく対岸にロープをつなぎ、さらに足元をかためるため激流の中で石を積み上げ足場を作り、隊員は孤立者を背負いロープをつたいながら一人一人救出し、全員の救出に成功した。また、この豪雨で並山川、石坂川は氾濫し、耕地が川筋となり土砂、地区では山崩れもあり、二人の命を失い、二人の重傷者を出した。さらに仁保地区全体では、三七ヵ所の山崩れがあり、東園地区からも一人の尊い犠牲者を出す結果となった。
 この大水害による仁保地区内の農林、土木関係の被害をみると、農林関係では、田の流出埋没冠水五〇ヵ所、溜池三ヵ所決壊、橋梁損壊一一ヵ所、道路の決壊一八ヵ所、山地崩壊三七ヵ所、林道決壊三一ヵ所となっている。

 また、土木関係では、河川三五ヵ所、道路二二ヵ所、橋梁三ヵ所が決壊または流出した。このため山口市営バスは全線にわたり不通となった。このうちもっとも被害が大きかった原河内並山地区の山津波の状況を、並山の古老篠原品槌(88)の談で記しておく。

「並山で三回山津波を目撃した。第一回は大正七年で鞍馬ヶ浴を中心に山津波があり、わが家の田畑が八反歩土砂で埋った。この年は県下一帯が豪雨に見舞われたので、時の後藤農林大臣が災害視察のため山口県庁を訪れ、係官五、六名を並山の現場へ派遣し現地視察が行われた。第二回は昭和二十六年七月で、前回よりも被害が大であった。水田へ巨岩が流れこんだため村橋製材の機械をかりて川のへりや、田と田の問の凹地へ石を運搬し水田の修復をした。第三回が昭和四十七年の大水害である。長く降りつづいた雨で山肌にひびができ、雨水がその中へしみこみ、そのうち大雨が降ったので地下から水が吹き上げ、人の力では一〇〇人かかっても動かない二トンから三トンぐらいの巨岩が、まるで水中に浮いた風船玉のように、いと軽く「ズッコ、ズッコ」下へ向けて泥土にまかれた形で動き、狭い浴(えき、谷のこと)を出て地形が広くなると、とたんに「ドウーッ」というすごい音がして、「ザーッ」と力強く流れて行った。そのため田畑はもとより、道路といわず河といわず、一面に巨岩がごろごろ流れこみ、岩と岩との問を激流がぬうように流れ、交通は完全に遮断された。山津波は見る者には気色がわるく身の毛がよだつ思いであった。

 この地区が三回も山津波に襲われたのは、三方から流れる浴がここへ集まっており、また、並山の土質が真砂と砂で粘土質でないため、一定の期問以上は水をたくわえることが出来ないので、雨が小雨でも連続して降りつづき、そのあと大雨が降るとひとたまりもなく山津波が発生する危険な場所である」





ふしの川清流の会